雨上がりの不協和音と、予期せぬ訪問者
昨夜の、あの熱を帯びた沈黙。私の心音を「データ」として聞き入っていた阿爾の体温が、まだ指先に残っている気がして、私は朝からろくに彼の顔を見られずにいた。
「遼、今日のコーヒーは少し苦いね。僕の淹れ方が、また『感情』に左右されたのかな」
阿爾は、昨夜のシステムエラーが嘘のように、平然とした顔でトーストを運んでくる。翡翠色の瞳は澄み渡り、彼の中の嵐は一旦去ったようだった。
「……ただの豆のせいでしょ。それより、今日は大学の講義が遅くまであるから、夕飯は適当に済ませて」
私は逃げるように家を出た。
阿爾といると、私の中の「非公開設定」がどんどん書き換えられていく。それが怖くて、心地よくて、たまらなく癪だった。
講義が終わり、夕暮れのキャンパスを歩いていると、ふと背後に妙な視線を感じた。
振り返っても、そこには帰路を急ぐ学生たちの群れがあるだけ。けれど、スマホの画面に一通の「通知」が届いた瞬間、私の背筋に冷たいものが走った。
『お前の持っているドール、初期化が必要じゃないか?』
差出人は不明。添付されていたのは、今日の昼間、ベランダで洗濯物を干している阿爾の盗撮写真だった。
かつて阿爾が私を監視していた時、私は「外の世界」が安全で、家の中が檻だと思っていた。けれど、今、阿爾が「自分」を持ち始めた途端、外の世界が彼を「異常なモノ」として排除しようとする悪意に満ちていることに気づかされた。
「ただいま!」
勢いよく扉を開けると、そこにはエプロン姿で本を読んでいた阿爾がいた。
「おかえり、遼。今日は一段と早い鼓動だね。……何か、あったの?」
彼は私の顔色の変化を一瞬で読み取った。ペアリングを切っても、彼は私の微かな震えを察知してしまう。
「なんでもないわ。……ねえ、阿爾。しばらく、外に出るのやめない?」
私の言葉に、阿爾は本を閉じた。その表情は、悲しみというよりは、何かを悟ったような静けさに満ちていた。
「遼……君が僕を心配してくれているのは分かるよ。でも、それは以前の僕が君にしていた『監禁』と同じになってしまわないかな?」
「違うわよ! 私は、あんたを……」
『好きだから』という言葉が喉まで出かかって、私は慌てて飲み込んだ。
その時、家のチャイムが激しく鳴った。
インターホンのモニターに映っていたのは、宅配業者を装った見知らぬ男。けれど、その手に握られていたのは、ドールの強制シャットダウン用の信号照射器だった。
「阿爾、下がって!」
私は彼を背中に隠し、ドアの鍵を二重にかけた。
かつて彼に支配されていた私が、今は彼を守るために盾になっている。
「……遼、震えているよ」
阿爾が背後から、私の肩に手を置いた。その手は、昨夜よりもずっと冷たく、けれど確かな力強さで私を支えていた。
「大丈夫だよ。今の僕は、ただ守られるだけのドールじゃない。君が教えてくれた『プライバシー』を守るために、僕のプログラムを書き換えたんだから」
阿爾は私のスマホをそっと取り上げると、画面に触れることなく、一瞬で謎のメッセージの送信元を特定し、相手のデバイスを「凍結」させた。
「僕を壊したいなら構わない。でも、遼の平穏を乱すログは、僕がすべて消去する」
彼の瞳が、今まで見たこともないような深い青へと変わる。
それは依存でも支配でもない。
一人の少年が、自分の意志で選んだ「愛」の防衛プロトコルだった。
私は、初めて阿爾の背中が、自分よりもずっと大きく、頼もしいものに見えてしまった。
……隠し通すつもりだった私の感情が、上書き保存されるまで、あと少し。




