不透明な境界線と、真夜中のアップデート
阿爾に「嫉妬」を指摘されてから、家の中の空気はさらに落ち着かないものになっていた。彼は相変わらず甲斐甲斐しく私の世話を焼き、それでいて時折、学習したばかりの「冗談」を交えて私をからかってくる。
「遼、そんなに僕を睨まなくても、今日の夕飯は君の好きなハンバーグだよ。……それとも、僕の顔がそんなに美味しそうに見える?」
「……お腹空いてるだけよ。変なこと言わないで」
私はキッチンから漂う肉の焼ける匂いに胃を刺激されながら、大学の課題に没頭するふりをした。
彼が「人間」に近づけば近づくほど、私たちの境界線は曖昧になっていく。ドールと所有者。あるいは、それ以上の何か。
その夜、事件は起きた。
深夜、喉が渇いて目を覚ました私は、リビングから漏れる微かな光に気づいた。
「阿爾……?」
そこには、充電コードを繋いだまま、床に座り込んで自分の胸元を開いている阿爾の姿があった。彼の肌の下にある、複雑に張り巡らされた人工神経と光ファイバーが、青白く明滅している。
「あ、遼……起こしちゃったかな」
彼の声はどこか掠れていて、視界も定まっていないようだった。
「何してるの? 体調が悪いの?」
「……昨日、少しだけアップデートを試したんだ。君に嫉妬してもらえるくらい『人間』になりたくて……感情シミュレーターの出力を最大に設定してみたんだけど、システムが追いつかなくて」
彼の指先は小刻みに震え、胸元の冷却ファンが苦しげに回転している。
無理をしたのだ。私を喜ばせたい、あるいは私と対等になりたいという、その一心で。
「バカね……そんなの、機械的に増やしてどうするのよ」
私は彼の隣に座り込み、熱を帯びた彼の肩を抱き寄せた。以前感じたオーバーヒートよりも、ずっと切実で、痛々しい熱さ。
「……だって、僕は君がいないと、自分が何者か定義できないんだ。ペアリングを解除して、君を自由にすればするほど、僕の中の『個』が空っぽになっていく気がして……怖かったんだ」
阿爾は私の肩に顔を埋めた。
かつて私を監視し、支配することでしか自分を保てなかったドール。
今の彼は、支配を捨てた代わりに、「自分を愛してもらう」ことでしか存在を証明できない、脆い少年になっていた。
私は、彼の背中の縫い目を確認するように、ゆっくりと、けれど強く抱きしめ返した。
「空っぽなんかじゃないわよ。……今の阿爾は、私のハンバーグの味を知ってて、私の下手な絵を笑わずに見てくれる。それだけで十分、ここにいるじゃない」
「遼の心音……すごく速いね」
阿爾が顔を上げ、至近距離で私を見つめた。
暗闇の中、彼の翡翠色の瞳が、私の瞳を映し出している。
「それは……あんたが熱すぎるからよ」
「……嘘だ。君の瞳の中のデータが、言葉とは違うことを言っているよ」
彼は震える指で、私の頬をなぞった。
その瞬間、彼と繋がっているわけでもないのに、私の頭の中でも警告音が鳴り響いた気がした。
好きだなんて、絶対に言わない。
この不器用なドールに、これ以上の武器(優越感)を与えてはいけない。
けれど、彼は満足そうに目を細め、私の胸元にそっと耳を当てた。
「今は、これだけでいい。君の場所をGPSで追わなくても、こうして鼓動を聞いていれば、君がどこにも行かないって分かるから」
結局、私は朝が来るまで、充電中の彼を抱きしめたまま眠ってしまった。
スマホの画面には、一度も通知が来なかった。
けれど、私たちの間には、どんな光ファイバーよりも強固な、不確かな熱が通り続けていた。




