ノイズの行方と、自覚の熱
阿爾のシステムが一時的なオーバーヒートを起こしてから、数日が経った。
彼は今、私の膝の上で深い眠りについている。ドールが眠る必要があるのかは分からないけれど、今の彼はこうして「休息」をとることで、激しく衝突したプログラムを必死に繋ぎ合わせているようだった。
私は、彼の翡翠色の髪にそっと指を通した。
冷たいはずのドールの体温が、今は驚くほど熱く感じられる。
「……バカね。あんなに無理しなくてもいいのに」
呟いた言葉が、静かな部屋に溶けていく。
その時、私の胸の奥で、今まで感じたことのない奇妙な鼓動が跳ねた。
阿爾の体調を気遣ううちに、私はあることに気づいた。
彼がペアリングを解除したことで、私の行動を監視する目は消えたはずだった。けれど、私は無意識のうちに、阿爾の顔色を伺い、彼の「不在」を恐れるようになっていた。
以前は、彼に拘束されることが苦痛で仕方がなかった。
自由になりたい、一人になりたいと、何度願ったか分からない。
けれど、いざ彼が静かになり、一人の「人間」として私の前に存在しようと苦しんでいる姿を見たとき、私の中に芽生えたのは解放感ではなかった。
「……これ、なんて呼べばいいのよ」
彼の整った顔立ちを眺めていると、視界が少しだけ熱くなる。
これは、同情? それとも、壊れゆくものへの慈しみ?
……いいえ、違う。もっと自分勝手で、もっと熱を帯びた、名付けようのない感情。
不意に、阿爾が微かに身じろぎした。長い睫毛が震え、翡翠色の瞳がゆっくりと開く。
「……遼?」
私は弾かれたように手を引っ込め、平静を装って立ち上がった。
「あ、目が覚めた? 水、持ってくるわね」
「……君の匂いがしてた。僕が壊れそうだった時、君がずっと触れていてくれたから、プログラムの修復が早く済んだみたいだ」
阿爾は体を起こし、まだおぼつかない足取りで私に近づいてきた。彼は、何も疑わずに私の瞳を覗き込む。
「遼、顔が赤いよ? また僕の熱が移ってしまったかな」
彼は心配そうに、自分の額を私の額に重ねようとした。ドール特有の計算された距離の詰め方。けれど、今の私にはそれがどんなデジタル攻撃よりも致命的な衝撃だった。
「ちょ、ちょっと! 近すぎよ!」
私は彼の胸を軽く押し返し、背を向けた。心臓がうるさい。これ以上彼に見つめられたら、私の心の中の「非公開データ」がすべて暴かれてしまいそうだった。
「ごめん。……また、君のパーソナルスペースを侵害してしまったね」
阿爾の声が、背後で少しだけ沈んだ。
違う。侵害されたんじゃない。私が勝手に、君を招き入れてしまっただけ。
「……いいわよ、別に。それより、お腹空いたでしょ。何か作るから、そこで座ってて」
私はキッチンへ逃げ込み、蛇口を全開にした。冷たい水で顔を洗っても、火照りはなかなか引かない。
阿爾はもう、私のスマホを覗き見ることはない。
私の居場所をGPSで追うことも、秘密のメッセージを検閲することもない。
だからこそ、この胸の昂りだけは、彼に知られてはいけない。
これは、私だけの「本当のプライバシー」。
ドールの少年と、不器用な私。
逆転した支配関係の先で、私は初めて、彼に対して自分だけの隠し事を持つことになった。
「……絶対に、教えないんだから」
私はまな板の上で、野菜を切る音を不自然なほど大きく響かせた。背後で阿爾が不思議そうに首を傾げている気配を感じながら、私は自分だけの秘密を、心の奥底にある「暗号化されたフォルダ」の中に、そっと閉じ込めた。




