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初めての朝食と、無自覚な誘惑

キッチンに逃げ込んだ私は、震える手でフライパンを握っていた。


ジューッという卵が焼ける音が、バクバクと騒がしい自分の鼓動をかき消してくれることを願いながら。



「……落ち着け、私。相手は人形。昨日まで棚にいた、ただのアンティークなんだから」



そう自分に言い聞かせるけれど、手の甲にはまだ、彼に触れられた時の熱が残っている。


人形だった頃はあんなに冷たくて、滑らかだったはずの肌。


それが今は、柔らかくて、温かくて——。



「……ああっ、もう! 忘れろ私!」



ぶんぶんと首を振って、出来上がった目玉焼きとトーストを皿に並べる。


とりあえず彼を「人間」として扱わなければならない。それが今の私に課せられた、あまりにも過酷なミッションだ。



「アル、準備できたからこっちに来て……」



リビングから声をかけると、バタバタとぎこちない足音が聞こえてきた。


現れた彼は、私が渡した兄の大きすぎるスウェットに身を包んでいる。


袖から指先が少しだけ覗いているその姿は、あまりにも保護欲をそそるというか、なんというか。



「ご主人様、これ……歩きにくい」



アルは裾をひらひらさせながら、不思議そうに自分の足元を見つめている。



「我慢して。今のあなたには、それしか着るものがないんだから。……それより、座って。これ、食べられる?」



アルを椅子に座らせ、目の前に皿を置く。


彼はじっと目玉焼きを見つめ、それから私を見上げた。



「……食べ方、わからない。昨日までは、見てるだけだった」



そうだった。


人偶の彼にとって、食事とは「飾られている隣にあるもの」でしかなかったのだ。


私は溜息をつき、フォークを手に取った。



「こうやって、小さく切って……口に運ぶの。やってみて」



アルは言われた通りにフォークを握ろうとするが、指の力がうまく入らないのか、カシャンとフォークを落としてしまった。



「…………できない」



あからさまに肩を落とし、捨てられた子犬のような目で私を見てくる。


その破壊力に、私の理性は一瞬で削り取られた。



「……わかったわよ。はい、あーんして」



結局、私は彼の隣に座り、目玉焼きを一口分切り分けた。


アルの顔が、すぐ近くにある。


彼は素直に口を開け、私の差し出したフォークをパクリと含んだ。



「……ん」



咀嚼するたびに、彼の長い睫毛が揺れる。


ごくん、と喉が鳴る。



「……おいしい。これが、『味』?」


「……そうよ。美味しいでしょう?」


「うん。主人の匂いがする。温かくて、甘い」



さらりと恥ずかしいことを言う彼に、私の顔は再び沸騰した。


この子は、自分が何を言っているのか分かっているのだろうか。



「匂いなんてしないわよ! ほら、次はパン。自分で持って食べて」


「やだ。……主人がいい」



アルは私の服の裾をぎゅっと掴み、離そうとしない。


その仕草は、彼がまだ小さな人偶だった頃、私がよく「離したくない」と抱きしめていた時と同じだった。



「……アル、あなたね……」


「主人は、僕が人間になったら、もう可愛がってくれないの?」



ひどく不安そうな声。


昨日まで無機物だったはずの彼が、今、必死に私との繋がりを確認しようとしている。


その純粋な瞳を見てしまうと、突き放すことなんて出来なかった。



「……可愛がるわよ。捨てたりしないわ。でも、人間には『距離感』っていうのがあって……」


「距離感?」


「そう。例えば、そんなに顔を近づけちゃダメとか、いきなり服を掴んじゃダメとか……」



説明しているそばから、アルは私の肩に頭を預けてきた。


スウェット越しに伝わる、彼の体温。


サラサラとした髪が私の首筋をなでて、あまりの心地よさに声が出そうになる。



「……でも、こうしてると、主人の心臓の音が聞こえる。……ドキドキって、すごく早い」


「っ! それは……あなたが急に近寄るからでしょう!」



私は慌てて彼を引き離そうとしたが、アルは逆に私の腰に腕を回してきた。



「僕は、もっと知りたい。主人のこと。人間がどうやって愛し合うのかも……」


「……え?」



アルは私の目を真っ直ぐに見つめ、ゆっくりと顔を近づけてくる。


逃げなきゃいけないのに、彼の瞳の綺麗さに吸い込まれて、体が動かない。



あと数センチで、唇が触れ合う——というところで、私は彼のおでこを全力で押し返した。



「……っ、まだ早い! 早すぎるわよ!」


「……早い? じゃあ、いつならいいの?」


不思議そうに小首を傾げるアル。


この「無自覚な誘惑」は、どうやら私の心臓が持つのを待ってくれないらしい。



「とにかく! 今日はまず、あなたの服を買いに行くわよ。その格好じゃ外に出られないし」


「……主人と、お出かけ?」


ぱあっと、彼の表情が明るくなる。


その笑顔は、どんなに高価な人偶よりも美しくて、残酷なほど私の胸を締め付けた。


これは、主人と人偶の再会。


それとも、男と女の始まり。


答えを出すには、私の心はまだ、あまりにも「じれったい」ままだった。

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