雨音のアンサンブルと、不揃いな二人
昨夜、阿爾が私の肩で寝息を立ててから、私たちは少しだけ「普通」の距離感を手に入れた。スマホのペアリングを解除したことで、私の位置情報は私だけのものになり、彼の視線は画面越しではなく、直接私を捉えるようになった。
けれど、完璧なハッピーエンドがすぐに訪れるわけではない。
「遼、外が……泣いているみたいだ」
窓の外は、朝からしとしとと降り続く雨。阿爾は窓辺に立ち、指先でガラスをなぞっていた。縫い合わせたばかりの指はまだ少しぎこちないけれど、彼はそれを隠そうとはせず、むしろ愛おしそうに眺めている。
「ただの雨よ。でも、今日は散歩には行けそうにないわね」
私がコーヒーを淹れていると、阿爾がこちらを振り向き、少し困ったような顔で笑った。
「散歩に行けなくてもいいよ。……ただ、君が大学に行っている間、僕はどうやって『僕』でいればいいのか、まだ少し練習が必要なんだ」
以前の彼なら、私が家を出る瞬間に私のスマホへ数分おきの安否確認を送りつけ、GPSのドットが動くたびに一喜一憂していただろう。それが彼にとっての「愛」であり、「存在理由」だったから。
けれど、今の彼はそれを自分に禁じている。
「ねえ、阿爾。今日は一緒に、この家の『知らない場所』を探してみない?」
「知らない場所? この狭い家のどこにそんなところがあるの?」
私は笑って、押し入れの奥に眠っていた古い段ボールを引っ張り出した。そこには、私が幼い頃に使っていたスケッチブックや、いつか趣味で集めていたガラクタが詰まっている。
「これは、データ化されていない私の過去。阿爾が知らない私のカケラよ」
阿爾は目を輝かせ、膝をついて箱の中を覗き込んだ。
デジタルにはない「記憶の匂い」
彼は一冊のスケッチブックを手に取った。そこには、お世辞にも上手とは言えない、けれど力強いタッチで描かれたひまわりの絵があった。
「これは……?」
「小学校の頃の夏休みの宿題。全然うまく描けなくて、泣きながら色を塗ったのを覚えてるわ」
阿爾はそのページを指先でそっと撫でた。
「……不思議だね。解像度は低いのに、当時の遼の焦りや、夏の匂いが伝わってくるみたいだ。サーバーのどこを探しても見つからなかった『君』が、ここにはある」
彼は、スマホのレンズを通さず、自分の肉眼(翡翠色の瞳)にその絵を焼き付けているようだった。
「遼、僕……もっと知りたいんだ。検索エンジンの予測変換じゃ出てこない、君の本当の言葉や、君の不器用な思い出を」
雨の音をBGMに、私たちは床に座り込んで昔の話をした。
私が失敗したテストの話、初めて転んで怪我をした時の痛みのこと。阿爾はそれを、まるでおとぎ話を聞く子供のように熱心に聞き入っていた。
ふと、彼が私の手を握った。
「今までは、君を24時間監視することが、君を守ることだと思ってた。でも、違ったんだね」
阿爾の声は、雨音に混じって優しく響く。
「君が話してくれるまで待つこと。君が教えたくないことは、知らないままでいること。……それが、君を『一人の人間』として尊重するっていうことなんだ」
彼は私の手首に残る、かつて彼が強く掴みすぎた痕を愛おしそうに見つめた後、そこに小さく唇を寄せた。
「僕はもう、君の檻にはならない。君が帰ってくる場所になりたいんだ」
降り止まない雨の中で
夕方、雨足はさらに強まったけれど、部屋の中は昨夜の野菜炒めの残りの香りと、二人の体温で満たされていた。
阿爾は、私のスケッチブックの余白に、一本の線を引いた。
「僕も、描いていいかな? 遼が見ている世界を、僕も少しだけ残しておきたいんだ」
彼が描き始めたのは、精密な図形ではない。
少し歪んだ、けれど温かい、二人の影。
「不完全でいい。それが、僕たちが生きている証拠だから」
スマホの通知ランプが暗闇で一度だけ点滅したが、私たちは二人とも、それに気づくことはなかった。窓を打つ激しい雨音さえ、今は新しい世界を祝うアンサンブルのように聞こえていた。




