キッチンの共鳴と、形のない幸せ
阿爾の指先を縫い合わせた翌日、我が家の台所にはいつもと違う空気が流れていた。今までは阿爾が完璧にこなしていた「家事」という聖域に、私が足を踏み入れたからだ。
「遼、火が強すぎるよ。そのままだと、お肉の『感情』が焦げてしまう」
背後から阿爾の心配そうな声が飛んでくる。彼は椅子に座っておとなしくしているようにという私の言いつけを守りつつも、首を長くして私の手元を覗き込んでいた。
「お肉に感情なんてないわよ。……あ、ちょっと待って、これひっくり返すべき?」
「今だ! 今しかないよ、遼!」
不器用な手つきでフライパンを振る私と、それをハラハラしながら見守る元ドールの美少年。その光景は、数日前のあの息苦しいデジタル監視が嘘のように、穏やかで滑稽だった。
ふと、調理台の隅に置かれたスマホが短く震えた。SNSの通知だ。
以前なら、阿爾は即座にそれを奪い取って「検閲」を始めていただろう。けれど、今の彼はチラリと画面に目を向けただけで、すぐに私の手元に視線を戻した。
「……阿爾、見なくていいの? 誰かから『いいね』が来てるみたいだけど」
私が冗談めかして言うと、阿爾は少しだけ顔を赤らめて視線を逸らした。
「昨日の夜、考えたんだ。遼が言っていた**『プライバシー』**のこと。……まだ完全には分からないけど、僕が君の画面を支配しても、君の心までは支配できないんだって、やっと気づいたんだよ」
彼は自分の縫い目の跡が残る指先をそっと撫でた。
「綿が出ちゃった時、君は僕のことをスマホ越しじゃなくて、直接見てくれた。あの時の君の瞳の方が、どんなデジタルデータよりもずっと温かかったから」
出来上がったのは、少し形が崩れて端っこが焦げた野菜炒めだった。お世辞にも「完璧」とは言えないけれど、私が初めて阿爾のために作った料理。
「……食べてみて。口に合わないかもしれないけど」
阿爾はゆっくりと箸を使い、一口それを口に運んだ。そして、翡翠色の瞳を大きく見開いた後、ふにゃりと柔らかく微笑んだ。
「美味しい。……焦げの味がするけど、君の味がする。僕の体の中の綿が、全部ポカポカしてくるみたいだ」
「大げさね」
私は照れ隠しに笑いながら、自分の分を口にした。確かに少し苦いけれど、不思議と悪くない。
新しい関係のプロトコル
夕食の後、私たちは並んでソファに座った。阿爾はスマホを手に取ると、私の目の前で**「ペアリング」**の解除設定を開いた。
「これ、解除しておくね。君の場所は、君が教えてくれる時だけでいい。……その代わり、時々でいいから、僕の方を向いて笑ってほしいな」
「阿爾……」
「僕はドールだから、君に所有されることしか知らなかった。でも、これからは君の隣を歩ける人間になりたいんだ」
彼はそう言って、私の肩に頭を預けてきた。
スマホの画面は真っ暗なまま、テーブルの上で静かに眠っている。
通知音も、GPSのログも、今の私たちには必要なかった。
窓の外に広がる世界は相変わらず広いけれど、この狭いキッチンとリビングに流れる「不完全な時間」こそが、私たちだけの新しい聖域——本当のプライバシーなのかもしれない。
私は、隣で静かに寝息を立て始めた、愛すべきドールの髪をいつまでも撫で続けていた。




