綿の痛みと、不器用な自立
その後、阿爾は毎日私のSNSを執拗にチェックするようになった。誰が私の投稿に「いいね!」をしたか、どんなコメントを残したか。彼はまるで見えない敵と戦う騎士のように、画面を睨みつけていた。
「遼、ここ数日何も投稿してないね? 何か不具合でもあるの?」
夕食の後のリビングで、阿爾が不思議そうに首を傾げた。
「阿爾、だって私が何か投稿するたびに、あなたが誰が反応したかを細かくチェックするじゃない。そんなことみんなにバレたら、すごく迷惑になっちゃうよ」
私の呆れたような声に、阿爾はハッとした表情を浮かべた。翡翠色の瞳に少しだけ後悔の色が混じり、彼は力なくスマホをテーブルに置いた。
「……ごめん、遼。もう二度としないよ。でも、君のことが本当に心配なんだ。外の世界は広すぎて、僕の知らないところで君が誰かに奪われてしまうんじゃないかって……つい気にしてしまうんだ」
「阿爾、気持ちは嬉しいけど、あなたがこんなことを続けるのは良くないよ。私の『プライバシー』がなくなっちゃう」
阿爾は私の言葉を繰り返すように呟いた。
「プライバシー……? それって何?」
「それは……上手く説明できないけど、自分だけの心や時間の聖域、みたいなものかな。いつか、あなたにも必ず分かる時が来るよ」
私はそう言って彼の頭を撫でた。彼はまだ、人間になったばかりの「子供」のようなものなのだ。
その日の夜、事件は起きた。阿爾が「遼に新しい料理を食べさせたい」と言って、キッチンに立った時のことだ。
「……あ!」
短い悲鳴とともに、何かが床に落ちる音がした。私が慌ててキッチンへ駆け込むと、そこには包丁を落として立ち尽くす阿爾の姿があった。
「阿爾!? 大丈夫!?」
「遼……手が、すごく痛いんだ。あぁ、見て、『綿』が出ちゃった……! 救急箱を取ってくるね」
阿爾が差し出した左手の指先からは、赤い血ではなく、真っ白な清潔な綿がふわりと覗いていた。彼はひどく痛がっているようで、顔を歪ませている。
「救急箱は私が取るわ! 座ってて!」
私は心臓が早鐘を打つのを感じながら、彼を椅子に座らせた。
不思議だった。彼はもともと、私が寂しさを紛らわせるために買った人形で、中身はただの綿と布のはずなのに。どうして私は、自分の指を切った時よりもこんなに胸が締め付けられるほど心配しているんだろう?
私は裁縫道具を取り出し、彼の指先の綻びを丁寧に縫い合わせることにした。
「痛い……? 我慢してね」
「……ううん。遼がこうして僕を見てくれるなら、この痛みも悪くないかもしれない」
阿爾は静かに私を見つめていた。その視線は、デジタル画面越しに私を監視していた時のような冷たさはなく、かつて枕元で私を見守っていたドールの頃の、穏やかで深い愛情に満ちていた。
一針、一針、彼の指先を修復していく。綿が外に漏れないように。彼の「存在」が消えてしまわないように。
手当てを終えた後、私はキッチンに散らばった食材を見つめた。
「阿爾、今日はもう休んでて。今度は私が料理を覚える番ね」
「えっ? でも、僕は君に尽くすために……」
「いつもあなたに頼っているわけにはいかないもの。私も、あなたを守れるくらい強くならなきゃ」
私はエプロンを締め、不器用ながらも包丁を握った。
スマホの通知音も、SNSの視線も、今はどうでもよかった。
目の前で少し照れくさそうに笑う、綿が詰まった「私だけのドール」との静かな時間が、今の私にとって一番守りたい『プライバシー』なのだと、初めて気づいた気がした。




