電子の檻と、甘い支配
阿爾による「整理」が行われた翌朝、私のスマホは驚くほど静かだった。かつては朝から鳴り止まなかった友人たちからの通知も、SNSの賑やかな喧騒も、すべてが厚い壁の向こう側に追いやられたかのように消え去っていた。
「……おはよう、遼。今日は一段と顔色が綺麗だね。余計な雑音が消えて、よく眠れたからかな?」
キッチンから漂ってくる「トースト」の香ばしい匂いとともに、阿爾が声をかけてくる。彼は私に買い与えられたスマホを使いこなし、今や生活のすべてをその掌の上で管理しようとしていた。
朝食の席で、阿爾は自分のスマホの画面を私に見せた。そこには、私のスマホと「ペアリング」されたカレンダーアプリが表示されている。
「今日の予定は……午後から講義が一つだけだね。終わったらすぐに帰ってきて。GPSの『位置情報共有』はオンにしておいたから、あなたが今どこを歩いているか、僕には全部わかるよ」
「阿爾、それはやりすぎよ。まるで見張られているみたい……」
「見張っているんじゃないよ。守っているんだ」
彼は私の唇に指を当て、言葉を封じた。その指先には、スマホの画面を叩きすぎたせいか、微かな熱が宿っている。
「外の世界は危ない。昨日みたいに、あなたの笑顔を盗もうとする男がまた現れるかもしれない。でも、この『アプリ』があれば、僕たちはいつでも繋がっていられる。離れていても、僕の心臓はあなたの隣にあるんだ」
彼の言葉は甘く、けれど逃げ道を塞ぐ粘着質な蜜のように私の思考を麻痺させていく。
大学のキャンパスに着いても、私の心はどこか浮ついていた。友人たちが遠くから私を呼び止める声が聞こえる。
「遼! なんでLINE返してくれないの? 合宿の件、既読にもならないし……」
「あ、ごめん。スマホの調子が悪くて……」
私は嘘をついた。本当は、阿爾が私の「プライバシー設定」を書き換え、彼以外の人間からの接触をすべて拒絶するように書き換えてしまったなんて、口が裂けても言えない。
講義中も、机の上に置いたスマホの画面が不意に点灯する。
阿爾: 『今、前の席の男が君の方を振り返ったね。不快だ。』
心臓が跳ねた。彼は大学にいないはずなのに、まるで私の目を通して世界を見ているかのようなメッセージ。慌てて周囲を見渡すが、彼の姿はない。
(まさか……カメラを『遠隔操作』してるの……?)
その可能性に気づいた瞬間、背筋に冷たい戦慄が走った。しかし、恐怖と同時に、自分を片時も離さず監視し続ける彼の執念に、歪んだ充足感を抱いている自分もいた。
帰宅路、私はわざと少し遠回りをして、夕暮れの公園のベンチに座った。
阿爾との共有設定を切り、一瞬だけ「自由」になろうとしたその時、スマホが激しく震えた。
『警告:位置情報の共有が切断されました』
直後、阿爾からのビデオ通話が着信した。画面に映る彼の顔は、かつてないほど蒼白で、瞳には狂気にも似た焦燥が宿っている。
「遼、どこにいるの!? なんで僕を消したんだ! 怖い……世界が真っ暗だ。君がいないと、僕はただのガラクタになってしまう!」
「阿爾、落ち着いて。ただの通信エラーよ、すぐに帰るわ」
「嘘だ! 君は僕を捨てて、あの男たちのところへ行くつもりなんだろう? 『履歴』は全部消せても、僕の記憶からは消せないんだよ!」
画面越しに叫ぶ彼の声は、悲痛な叫びのように響いた。私はたまらず駆け出した。彼を安心させるために、彼という名の檻の中に自ら戻るために。
アパートのドアを開けた瞬間、私は強く抱きしめられた。
「おかえり、遼。もう二度と、『オフライン』にならないで」
彼は私のスマホを奪うと、その場で床に叩きつけようとした。けれど、思いとどまったようにそれを胸に抱き、私の首筋に顔を埋めた。
「この機械は僕たちの鎖だ。壊してしまいたいけれど、これがないと君を繋ぎ止めておけない……。ねえ、遼。いっそ僕の『メモリ』の中に、君をデータとして閉じ込められたらいいのに」
彼の執着は、もはやデジタルな数字では測れない領域にまで達していた。
私は彼の背中に手を回し、ゆっくりと目を閉じる。
私たちの愛は、もう誰の目にも触れない、暗い画面の中だけで完結し始めていた。




