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不器用な日常と、解けない魔法

降り続いていた激しい雨は、夜明けとともにようやくその勢いを失い、窓の外では洗い流されたばかりの鮮やかな青空が広がっていた。

 キッチンからは、カチャカチャという控えめな食器の音と、蛇口から流れる水の音がリビングまで響いてきた。


「……阿爾、無理しなくていいわよ。お皿を割ったら危ないから、私がやるわ」


私がソファから声をかけると、サイズが少し大きいエプロンをつけた阿爾アルが、ひょいとキッチンから顔を出した。その銀糸のような髪には、慣れない洗い物の最中に跳ねたのであろう小さな水滴が、朝日に照らされて真珠のように輝いている。


「嫌だ。主人がいつも僕のために動いてくれるから、僕も何かしたいんだ。……人間は、こうやってお互いのために何かをするんだろう? 『自炊じすい』っていうんだよね、これ。僕はもう『飾られるだけのモノ』じゃないって、証明したいんだ」


彼は真剣な表情で、少し震える手つきでトーストに苺ジャムを塗っていた。その動作一つひとつが、まるで「スマホ」の画面を恐る恐るスワイプする初心者のように慎重で、見ていてどこか危うい。昨日まで冷たい磁器だったその指先が、今は焼きたてのパンの熱を感じ、ジャムの粘り気に戸惑っている。


「……そう。ありがとう、阿爾。でも、そんなに急がなくていいのよ。昨日初めて外の世界を歩いて、『コンビニ』や『公園』を回ったばかりなんだから、もっとゆっくり休んでいてもいいのに」


「急がないと、主人がどこかへ行ってしまいそうで怖いんだ。僕が役に立つ人間になれば、主人はずっと僕を側に置いてくれるでしょう? 何もせず、ただ消費されるだけの存在になるのは嫌なんだ。価値のある人間になりたいんだ。……ねえ、今の僕、ちゃんと『普通』の人間に見えているかな?」


彼はトーストをテーブルに運ぶと、私の返事も待たずに、吸い寄せられるように隣にぴったりと腰を下ろした。人との適度な距離感というものを、彼はまだ知らない。翡翠色の瞳が、私の反応を貪るようにじっと見つめてくる。


「ねえ、りょう。このジャム、すごく甘いね。……主人の匂いと同じくらい、甘くて、心が溶けそうになるよ。これが人間が言う『エモい』っていう感情なのかな」


彼は自分の指に少しだけついた赤いジャムを、ゆっくりとなぞるように舐めとり、悪戯っぽく、けれどどこか寂しげに微笑んだ。その仕草はあまりにも無防備で、私は射抜かれたように思わず視線を逸らしてしまう。彼の体温が服越しに伝わってきて、朝の涼しい空気の中で、そこだけがひどく熱を持っていた。


「……変な言葉を覚えないで。早く食べないと、せっかくのトーストが冷めちゃうわよ。私もこれから学校の『課題かだい』をやらなきゃいけないんだから」


「冷めてもいいよ。主人の隣にいられるなら、それだけで心臓が温かいんだ。……ねえ、今日はどこにも行かないで、こうしてずっと一緒にいよう? 『連休』じゃないけど、ずっと二人の時間が続けばいいのに。外の世界なんて、見なくていい。ここで僕だけを見て、僕のことだけを考えていて」


阿爾の独占欲は、穏やかな日常の中に静かに、けれど確実に毒のように溶け込んでいく。

 彼は「ただの同居人」として振る舞おうと努力しながらも、その端々で、私への絶対的な依存と「所有されたい」という本能を隠そうとはしなかった。


私は、彼の不器用に焼かれたトーストを口に運んだ。

 少しだけ焦げた苦味がしたけれど、それはどんな高級な料理よりも、私の胸を深く、甘く締め付けた。

 

 彼が時折見せる、飾棚に戻ることを恐れるような怯えた瞳。それを思い出すたび、私は彼を強く抱きしめてやりたい衝動に駆られる。この安らかな時間が、いつか音を立てて終わるかもしれないなんて、今は考えたくなかった。



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