85 ヒロの洗髪
村に近づくにつれ、周囲に広がる畑の面積が思ったよりも広いことに気が付いた。俺は野菜には詳しくないが、畑には色々な種類の葉が生い茂っている。野菜の種類も多そうだし、もしかすると奥には田んぼなどもあるのかもしれない。
久しぶりに米が手に入るかも、と思うだけで胸が高鳴る。
「さて、ヒロの髪についた染毛剤を洗い流さないとだね。どこかに井戸はないかな」
シズカは辺りをきょろきょろと見回すと、「あった!」と言って小走りに走っていった。
シズカが走って行った先には石造りで年季の入った井戸がある。
先ほどまではこの染毛剤の匂いにも慣れたつもりでいたが、もうすぐ洗い流せると思った途端に、鼻をつく匂いやべっとりとした感触が気になるようになった。
やっと洗い流せる、と井戸に手を伸ばすと、「アンタら、何をしているんだい!」と後方から声が飛んできた。
振り向くと、恰幅の良い中年女性が腰に両手をあててこちらを睨んでいる。
「アンタら、どこから来た!? 村のもんでもないし、荷物を見た感じ商人でもないだろう! うちの村の井戸に勝手しようったって、そうはいかないよ!」
「ごめんなさい。ホラ、アタシのツレが森で転んじゃって、髪の毛にヘドロがべったりついちゃったから洗い流したくってさ。井戸を貸してもらえないかな?」
シズカが恐る恐る尋ねる。森で転んでしまったというのは真っ赤な嘘である。しかし、村人に怪しまれないように染毛剤を髪に塗りたくってるんです、言えない。怪しまれないようにやったはずなのに、勝手に井戸を使おうとしたことで、いま俺達は思いっきり怪しまれている。本末転倒だ。
村人の女性は眉を寄せたまま、俺達の頭の先からつま先までをジロジロと見ている。俺達に井戸を使わせてもいいのかどうか、判断に迷っているようだ。
「ご婦人、大変失礼いたしました。そちらで井戸を使おうとしているのは私の連れなのです。どうか使用を許可していただけませんか」
そう言って物腰穏やかな口調で近づいてきたのは、カゲロウだ。いつもの偉そうな口調とは打ってかわって、なんとも上品で感じの良い喋り方だ。
カゲロウが話しかけると、村人の女性はパッと顔を赤らめた。
「ああ、アンタの連れだったのかい。いやぁね、そこの二人の身なりがあまりにも汚いもんだから、コソ泥の類だといけないと思ってね」
女性は随分と失礼なことを言う。俺だって、好き好んで小汚い恰好をしている訳ではない。染毛剤を塗りたくられているのは不可抗力だし、だいたいカゲロウだって綺麗な格好をしている訳ではない。俺と似たり寄ったりだ。
それでもカゲロウが上品に見えるのは、その余所行きの喋り方と所作のせいだろう。俺には真似できない。ザカリオのパーティに潜入した時にも思ったが、どうしてカゲロウはこんな上品な振る舞いができるのだろうか。
「ご心配をおかけいたしました。実は森で転んでしまい、そのような見た目になってしまったのです。どこかの川で洗おうと思ったのですが、なかなか水場も見つからずでして」
「ああ、それなら村の奥に川が流れてるよ。そこを使うといい。井戸を使ってもいいけれど、何回も水を汲むのは大変だろう。そこのお兄さんの頭を洗うには、かなりの量の水が必要なんじゃないかい」
カゲロウは「では、そのようにいたします。ご親切にどうも」と一礼すると、教えられた方角へと歩き出した。
「さっきのおばさん、カゲ様が現れた途端に態度を変えて、嫌な感じ!」
シズカが鼻の付け根に皺を寄せる。
「カゲロウを見た女の人は、皆ああなるんだ。イケメンって得だよな」
俺は女性にああいう態度を取られたことはない。イケメンは人生イージーモードに違いない。俺は奥歯をギリリと噛んだ。
「皆って言っても、リタはカゲ様に対して普通に接してるよな?」
言われてみるとそうだ。ふとリタの方に視線をやると、こちらの視線に気づいたリタが答えた。
「ええ、だって私はもっと紳士的な人が好みですもの。カゲロウは必要に応じて紳士的に振舞うことがありますが、基本的に荒っぽいじゃないですか。すぐ怒るし。タイプじゃないです」
「そうなんだ! 安心した。ということは、リタは恋のライバルじゃないってことだな」
シズカは一人で呟き、うんうんと頷いている。恋のライバルって、シズカは本当にカゲロウに一生ついていくつもりなのだろうか。
そうこうしている間に川につき、俺は数時間ぶりに染毛剤から解放されることになった。川べりに跪いて、頭を川に突っ込むと、川の水が一気にヘドロ色へと変わった。
「うえ、すごい色。おまけに匂いも広がって最悪だ」
「染毛剤には天然素材しか使ってないから、川で洗っても問題ないはずだ。魚や他に生き物がいても影響ないと思うよ」
シズカはそう言うが、にわかには信じがたいほどに川の水が濁っていく。しかし、俺も早い所染毛剤から解放されたい。水の濁りは見ないようにして、俺は一気に髪を洗った。
髪のべったり感が消えてサラサラとした手触りになった頃、後ろから知らない声に話しかけられた。
「お前さんたち、どこから来たんじゃ? 見たところ商人でも無さそうじゃが」
見ると、鍬を手にしたおじいさんが立っている。
「我々はザカリオから来ました。なんでも、この姉弟がこちらで栽培されている米という植物に興味があるとのことです。私は護衛なのです」
カゲロウが答える。ちなみにこれは、この村に来る前に俺達が考えた設定だ。シズカが姉、俺が弟。カゲロウとリタが冒険者で、俺達を護衛しているという設定だ。無職の集まりが旅をしていますと言うよりも怪しまれないだろう、というカゲロウの案を採用した。
「ああ、そうかい。米に興味があるだなんて、変わってるねぇ。あんなもの、食べたことがない人がほとんどだろうに。ザカリオの方では話題になっているのかい」
「話題になっているというほどでもないんだけど、商人の人から少量の米を譲ってもらったのさ。それで興味が出て、はるばるここまでやってきたってワケ」
シズカが答えると、「それだけで、わざわざザカリオから?」と言っておじいさんは少し怪訝な顔をした。まずい、ザカリオから来たという設定には無理があったか。
「俺が料理人なんです。珍しい食材を見ると、料理人の血が騒ぐっていうか、なんというか。これをザカリオに持ち帰って、新しいメニューを開発したいなぁって」
俺が冷や汗をかきながらその場で思いついたことを喋ると、意外にもおじいさんは納得したようだった。
「ほうほう、そこの深緑の髪のお兄さんは料理人じゃったか。それなら納得じゃ。米はちと炊き方にコツがあるが、食べてみると意外にうまいでな。ザカリオのような都会でも人気が出るじゃろう。ただ……」
「何か問題でも?」
「ふぅむ。米はそのすべてが、向こうにある孤児院で栽培されておる。なんでも、タンボという特殊な畑じゃないと育たないらしくてな。水が大量にいるとかで、水を引きやすい孤児院の敷地内で栽培されておるんじゃ。でも、収穫されたやつはほとんどがエドランの方に出荷されていると聞いておる。たまぁに商人にも売っているようじゃが、アンタらみたいなよそ者が手にできるかは分からんぞ」
「そんなぁ」
リタはへなへなとその場に座り込んだ。
「私達、お米を食べるためにここまで来たんです! 米を譲ってもらえるまでは帰りません!」
「まぁ、孤児院に一度聞いてみなさい。少量であれば譲ってもらえるかもしれん。ただし、安い金額では無理かもしれんがな」
「どうしてですか?」
「そんなもの、決まっておろう。孤児院だって金がいるじゃろ。米の栽培だって子供たちの食い扶持を稼ぐためにやっとるんじゃ。孤児院の院長はこの村の出身なんじゃが、あいつは本当にえらくなった。昔は乱暴で、村の鼻つまみ者じゃったが、随分立派になって帰って来た。良い噂を聞かない組織で働いていると聞いたときは反対したもんだが、孤児院をやるくらいだから、あいつらもそんなに悪い集団でもないのかもしれんな」
おじいさんは孤児院の方を見つめながら言った。孤児院は村はずれのところにポツンと建っている。周りを囲んでいるのはおそらく田んぼだろう。
「あいつら、とは?」
「お兄さんたちも聞いたことがあるじゃろう。ゲルセミウムという組織だよ」
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