84 カゲ様
「髪を染める?」
まさか、辺りを木に囲まれた道の真ん中で、いきなり自分の髪を染める流れになるとは思わなかった。
俺の理解が追いつかないまま、シズカは話し続ける。
「そう。アタシ特性の染毛剤で、ヒロの髪を緑色に染める。まぁ地毛が黒いから、そんな鮮やかな色にはならないよ。せいぜい暗めの深緑色ってところじゃない? そうじゃないと、髪色が目立つせいで農村には入れないんでしょ?」
シズカがそう言うと、カゲロウとリタとクロジは口を半開きにしたまま、唖然としている。
「食べ物ごときでわざわざ髪を染めるのか……?」
カゲロウはドン引きしている。
「なによ、こっちの世界の人って髪を染めないワケ? 日本では髪を染めるのはごくごく普通のことなんだけど」
「髪を染めるだなんて話は吾輩は聞いたことがない。少なくとも、アーニマ大陸では一般的ではないな」
「そうですね、私も髪を染めるという行為はあまり聞いたことがありません。ハオランさんくらいじゃないですか?」
カゲロウもリタも、こちらの世界では髪を染めるのは一般的ではないという。カゲロウは俺とシズカの持っている染毛剤を順番に見比べたあと、観念したように言った。
「フン、そこまでして米が食いたいのなら手伝ってやろう。ただし、米を手に入れたらすぐに農村を離脱する。我々は遊びで旅をしているのではないのだ。各々、やるべきことがあるのだからな」
「よっしゃ! じゃぁ、ふわもこ兄さんの許可も下りたことだし、ヒロの髪色を変えるとするか」
シズカが染毛剤を持って、俺の方へじりじりとにじり寄ってくる。シズカが近づくほどに、染毛剤の独特な匂いが鼻をつく。青臭ささの中に、鼻の奥を刺激するようなピリピリとした匂いも交じっている。
「ううう、臭い! やっぱ米は諦め……ああ、やめて! 塗らないで! 鼻が曲がりそうで……ああああああ!」
俺の叫び声が辺りに空しく響いた。
「くっさいのニャ。絶対にこっちに寄らないで欲しいのニャ」
クロジが見たこともないほどに冷ややかな目で、俺を遠巻きにしている。
「ヒロ、決して風上に立つでない。そして吾輩から離れるのだ」
カゲロウも俺を毒物かのように扱う。せめてリタだけでも優しくしてくれないかと思ったが、彼女もクロジを抱いて俺を遠巻きにしている。
シズカに染毛剤を塗りたくられて、もう何時間も経った。途中で川があればそこで洗い流す予定だったのだが、残念なことに歩けども歩けども川にも池にもたどり着かなかった。
最初は臭くてたまらなかった染毛剤も、もう嗅覚が完全に麻痺したようで、今や何も感じない。しかし他のみんなにとってはまだ臭いようで、俺は皆から少し離れたところをトボトボと歩く羽目になっている。
「あ、村が見えたニャ!」
クロジの弾んだ声にふと顔を上げると、前方には畑がいくつも広がっている。畑の奥には小ぶりな民家が点々と建っている。
「カゲロウ、さっさと非獣人化するのニャ」
「言われなくても分かっておるわ」
カゲロウは不機嫌そうに言うと、歩きながら身体強化スキルを解除し、非獣人の姿へと変化した。体を覆っていた立派な毛皮が消え、耳の位置も普通の人間と同じ位置に変わっている。どこからどう見ても、獣人には見えない。
その時、その姿を見たシズカがハッと息を飲んだ。そういえば、シズカはカゲロウの非獣人の姿を見るのは初めてのはずだ。獣人が普通の人間同様の見た目になることに驚いていても無理はない。シズカに説明してやろうかと思ったが、シズカの方が先に口を開いた。
「……サクヤ様」
「ん? シズカ、なんて?」
「サクヤ様! サクヤ様がいる! あああああアタシの推しのサクヤ様が!!」
シズカは誰かの名前をしきりに叫び、甲高い声をあげている。一体どうしたんだ?
「シズカ、落ち着けって。誰なの、その、サクヤって」
「ヒロ知らないの!? 今をときめくスーパーアイドルのサクヤ様じゃん! 去年までグループで活動してたんだけど、今年からソロになって、それでも人気は衰えないどころか来年はドームツアーまで予定されていて」
急に早口になったシズカを宥めながら、どうしてそのサクヤ様の名前が出てきたのかを尋ねる。
「だから! ここに、サクヤ様がいるでしょうが!!」
シズカが指さした先には、思いっきり嫌そうな顔をしたカゲロウがいる。
「それはカゲロウだよ。カゲロウがサクヤ様に似てるってこと?」
「似てるどころか、本人にしか見えないよ! ももも、もしかして、サクヤ様はカゲロウという偽名でこの世界を旅する日本人だったのですか!?」
シズカは胸の前で手を合わせ、祈るようなポーズでカゲロウに迫る。
「何を言っておるのだ。吾輩はアーニマ大陸出身だ。日本人ではない。まぁ、我々獣人の祖先は日本から来たという伝説が残っておるから、お前らと同一の祖先ではあるのかもしれんが。でもそれも大昔の話だ。お前が言うサクヤ様と吾輩は別人だ。残念だったな」
カゲロウが鼻で笑う。人違いであったことにシズカががっかりするかと思ったが、彼女の目には輝きが増している。
「……カゲ様」
「はぁ?」
「カゲ様とお呼びしても、いいでしょうか?」
シズカは恍惚とした表情でカゲロウを見つめている。最早、カゲロウ以外の人間は見えていなさそうだ。
「なんだ、その気持ち悪い呼び方は! 吾輩のことをふわもこ兄さんなどと屈辱的な呼び方で読んだり、気色の悪い様づけで呼んだりと、ふざけすぎではないか!? いい加減にしろ!」
カゲロウはかなりご立腹のようだが、非獣人化した顔で怒ってもあまり迫力がない。イケメンすぎるのだ。
本来なら美形が怒ると迫力があるのだろうが、カゲロウの場合獣人化した状態で牙を剥き出しにして怒った顔の方が怖い。そちらと比べると、今の怒り顔はだいぶ迫力に欠ける。
「まぁまぁ、呼び方くらい、いいじゃないですか」
リタが二人を宥めるように言う。
「リタはシズカに甘すぎる! こやつはディカマンにいる時から好き勝手しすぎなのだ! リタからも行動に気を付けるように言ってはくれまいか」
「まぁまぁ、カゲ様も落ち着いてくださいよ」
リタがからかうように言うと、カゲロウは特別に長い溜息を吐いた。
「だから吾輩は非獣人化したくないのだ! 力も弱くなるし、ロクなことがない!」
「アタシ、カゲ様に一生ついていく。こんなイケメンに出会うこと、この先一生ないもん。サクヤ様は芸能人だから雲の上の存在だけど、カゲ様はアタシのすぐ傍にいらっしゃるんだもん。この機会を絶対に逃さない。アタシ、カゲ様に認めてもらうために頑張る」
シズカは決意を固めたように言った。いま一生ついていく、と言ったが、彼女は日本には帰らないのだろうか。せっかく共に日本を目指す仲間ができたと思ったのに、途端にこれだ。
俺もカゲロウ同様、長い溜息を吐いた。
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