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71 ダイゴとの散歩

 目の前の老人から「日本」という思わぬ単語が飛び出し、俺は体の痛みも忘れてその場で飛びあがった。


「おじいさん、日本を…日本を知ってるんですか!?」


「知ってるもなにも、ワシは日本出身じゃて。この白髪頭も、20年ほど前までは艶々とした黒髪だったんじゃがなぁ」


 ユーゴの祖父は白髪頭というには毛髪がかなり少ない、ほぼ禿頭を撫でた。


「おじいさんが……日本から来た?」


 その時、ハオランがイッセーに日本人がいると言っていたことを思い出した。そうか、この人が。


「50年くらい前じゃな。今のお前さんよりちぃと年上じゃったかなぁ。海で釣りをしとったらうっかり足を滑らせてな。そのまま溺れてしもうて、気づいたらこの世界におった。ふぉっふぉ、お前さんも同じクチかな?」


「いや、俺は地震の時にバスの窓から投げ出されて、その先が海だったんです。で、気づいたらこの世界にいたというのは、ユーゴのおじいさんと一緒です」


「そうかそうか。さぞかしびっくりしただろう。心細かっただろう」


 ユーゴの祖父は慈しむような眼差しで言った。その眼差しから伝わる熱で、俺の心の中がほぐれた。ああ、俺は自分が思っていたよりもずっと、この世界に来てから心が張りつめていたようだ。


「ええ、とてもびっくりしました。知らない人ばっかりで心細いし、それにスキルはなかなか使いこなせないし、モンスターもいる。日本とは大違いです。この町に辿り着くまで何回も死にかけました。でも……」


 俺はリタ、カゲロウ、クロジを順に見渡した。


「なんとか死なずに、ここまでたどり着けました。仲間に恵まれたんです」


「それは幸運じゃったなぁ。ワシもこの世界に来てからは分からんことだらけで、最初はそりゃぁ大変だった。でもこの町に婿養子としてやってきて、もう50年近く経つ。家族にもご近所さんにも恵まれて、今では孫も立派になった。大丈夫、日本に帰れなくともなんとかなるもんじゃて」


 ユーゴの祖父は、とうの昔に日本に帰ることは諦めたのだろう。そして、その選択こそが当たり前だと信じているのだろう。もしかして、日本に帰れる方法があるかもしれない、ということは知らないのだろうか。


「ユーゴのおじいさんは、日本に帰る方法は知らないんですか」


「はぁ、聞いたことがないのう。この世界に来て数年は手あたり次第、会う人会う人に日本について知らないか、帰る方法を知らないか聞いて回ったもんじゃが、誰も知らんかった」


 ユーゴの祖父はゆるゆると首を振った。優しそうな眼に、少しだけ寂しそうな色が映る。


「俺はまだこっちの世界に来て日が浅いんですけど、なんとか日本に帰ろうと思ってるんです。今は詳しい情報を集めてる最中で……」


 そこまで話してハッとした。横にはユーゴがいる。ユーゴは自身の祖父の出生についてどこまで知っているのだろうか。

 するとユーゴの祖父は髭をなでながら言った。


「ちぃと、この黒髪の兄さんと二人で話してくるわい。そうじゃな、町の様子を見回りながら話をしようかいな」


◇◆◇


 ユーゴの祖父とふたりで、町の中心部と思しき場所まで来た。まだ町の人の大半は避難所から戻っていないようで、町は閑散としている。


 トレントによる被害は町の入り口周辺が中心だったようで、今俺が歩いている辺りはほとんど壊れていない。なるほど、これなら明日にでも営業が再開できるだろう。


「それで、さっきはどこまで話をしたんじゃったか」


「俺が、日本への帰り方を模索しているという話です」


「そうじゃそうじゃ。そんな話じゃった。帰る方法があるかもしれんなどと、若い頃のワシが聞いてたら絶対に飛びついておったな。ふぉっふぉ」


「今は帰りたいとは思わないんですか?」


「そりゃぁ、里帰りをしたい気持ちはあるな。50年経って、故郷がどんなふうになってるのか見てみたい気はするわい。でもなぁ、もうワシの親兄弟も友達も、ほとんど死んでしもうとるじゃろうて。生きていても、もう顔を見ても分からんじゃろうな。なんせ50年じゃ、50年!」


 ユーゴの祖父は「50年」という響きが気に入ったようで、何回も繰り返しながら笑った。


「その間に、ワシは所帯を持ち、子を成し、今では孫もおる。元々ただの宿場町だったイッセーを、温泉街として盛り上げたのも外ならぬワシじゃ。言うてみれば、仕事も大成功。金も溜まった。今のワシの全てがこの世界にある。それに対して、日本にはもうワシの居場所はどこにも無いんじゃ」


「どこにもだなんて、そんな」


「考えてもみろ。50年も前に急に行方不明になった若者が白髪頭のジジイになって戻って来たと言って、誰が受け入れるんじゃ。しかも、スキルがある別の世界に行ってました、なんて話を誰が信じるんじゃ」


 俺はユーゴの祖父の話を自分自身と重ね合わせて、思わず背筋が冷えた。


 長くとも数か月以内に戻れば、俺の居場所は前と変わらないかもしれない。大きな地震があったのだし、生活環境は少し変わってしまうかもしれないが、それでも俺を知っている人が皆無ということはないだろう。どうにかして家族や友達の元に戻れるはずだ。職場だって閉店さえしていなければ、頼めばまた働かせてもらえるだろう。


 しかし、日本に戻れるのが数年後、はたまた数十年後だった場合、俺の居場所はそこにあるのだろうか。


 この世界のことを正直に話したとして、誰が信じてくれるだろうか。頭がおかしくなったと思われて、精神病院に行かされるのがオチだ。


 だからこそ早く帰らなければ。しかし、もし帰れなかったら……?

 不安が顔に表れていたのだろう。ユーゴの祖父が心配そうに俺の顔を覗き込んだ。


「すまんのう。ワシは今さら日本に帰るつもりはないが、お前さんは、お前さんの思うようにしたらいいんじゃよ。悲観する必要もない。希望があるなら、それに向かって突き進めばいいんじゃ。なんせ、若いんじゃからな」


 ユーゴの祖父は俺の背中をバシッと叩いた。思わず前につんのめる。


「ところで、ユーゴはおじいさんが異世界から来たということは信じているんですか?」


「そういう話はしたことがあるが、まぁ信じておらんだろうな。お前さんがユーゴの立場じゃったら信じるか? 例えば、お前さんの祖父がスキルのある世界から来た、そこにはモンスターもいた、なんて言って信じるかどうかという話じゃ」


「信じないと思います。爺さんの妄言か、ボケたのかなって考えると思います」


「ふぉっふぉ、そうじゃろう、そうじゃろう」


 ユーゴの祖父は、再び俺の背中をバシッと叩いた。今度はつんのめらないように、俺はつま先にしっかりと力を込めた。


「ところで、おじいさんのスキルって何なんですか? 温泉を掘るスキル?」


「いやぁ、ワシのスキルはただの掃除のスキルじゃ。イッセーでは元々温泉が湧いておったんじゃ。でもこっちの世界の人間は風呂に入る際に湯に浸からんじゃろ? そこに温泉とか大浴場という概念を、何年もかけて浸透させたのがワシの功績じゃ。スキルはこの温泉街や宿を清潔に保つだけのもんじゃ。お前さんもスキルに頼るでない。大切なのは自分が何をしたいか、じゃ。スキルに頼って生きていこうとすれば、目の前の道は簡単に狭まってしまうじゃろうて」


 俺は思わず自分の右掌を見た。スキルはいつもここから発動する。俺はこのスキルに頼りっぱなしではないだろうか。ちゃんと自分の頭で、自分が何をしたいのか考えられているだろうか。俺が右手を見てぼんやりしていると、ユーゴの祖父が言った。


「ところで、お前さんの名前は?」


 その時、俺はまだ自己紹介もしていなかったことに気づいた。同胞に会えたという喜びが先行して、人として大事なことをすっかり忘れていた。

 俺は少し恥ずかしい気持ちで自己紹介をする。


「俺はヒロです。ムラタ・ヒロ。スキルは串焼き屋のスキルで、商業スキルなんです。でもこっちの世界ではこのスキルで仕事している訳ではなく、これでモンスターとなんとか戦ってまして……」


「ほぉ! 串焼き屋のスキルで戦っておるとな。ちゃぁんと自分の頭で考えて、この世界で生きているようじゃな。それなら、お前さん、いやヒロはどこへ行っても大丈夫じゃ。ところでワシの名前はダイゴじゃ。婿養子になったから、もう元の名字は無いに等しい。こっちの世界では貴族以外は名字など無いからな。のう、ヒロよ」


 ダイゴは優しい目をして言った。


「お前さんはいつか日本に戻れるといいのう。ムラタ・ヒロに戻れる日が来ることを、ワシは心から祈っとるよ」


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