記憶五十七―本音、それは恋慕と欲と懺悔―
イラが眠ってから数時間が経過した。
あれから何度も「すぅ……すぅ……」と言う無防備な寝息と、「はぁ……はぁ……」とうなされているような声を何度も繰り返し続けている。
二つの相反する寝言は最初は同じ位だった。けれど時間が経つに連れてその様子は少しずつ変化をするようになり、今では苦し気な声音で「うぅん……」「嫌だ……」などと、まるで悪夢にうなされているかのような声を零すばかりとなってしまっていた。
旅をしていた時には宿泊部屋やテントで、イラと同室で眠る事が当たり前だった。だから私は何度もイラの寝顔を目にする機会はあったし、時折「むにゃむにゃ……」「もう食べられないよ……」等とイラが寝言を言っていた事も知っている。
けれど、私の知っているイラの寝顔はいつも幸せそうに、それでいて暢気に眠っている安らかな表情だった。こんな風にうなされながら、苦しそうに眠るイラを、私は今日まで知らなかった。
その事実が私の中の不安を加速させる。お粥を食べる時にイラが見せた涙、そして曇った表情。まるで私の知っているイラじゃないような気もする。
でもそれは、今回だけの話ではない。【強欲のアワー】との戦いで見た紅目のイラ。そして【強欲のアワー】から感じた存在そのものが悪だとしか思えない力を、あの戦いの最中だけではあったけど、イラからも感じてしまった事も。
私の考えすぎなら良いのだけれど、そのどちらもがイラがイラじゃなくなったように感じてしまう。
だけど前者の弱って苦しんでいるイラと、後者の暴走とも思える紅目のイラ。その二つもまた、それぞれ異なるようにも思える。
普段のイラ。今現在の悪夢にうなされているイラ。そして紅目のイラ。その全てがイラである事には変わりがない筈なのに、何故こんなにも不安になってしまうのか。
「イラがイラじゃなくなるなんて、そんな事ある筈ないのに……。そうだよね、イラ。」
深い眠りへと堕ちている彼に言葉が届く筈も、返事が返って来る訳もないと分かっていて、だからこそ衰弱した今のイラには見せられない私の弱みが溢れ出したかのようにポツリと零れ落ちた。
それでもどこかで期待してしまう。イラが目を覚まして、いつものように元気になっていて、笑いながら私を励まそうとして言葉をかけてくれる事を。
知られたくない筈なのに、安心したくて、その根拠が欲しくて、イラが助けてくれる事を期待してしまっている。分かっている。矛盾した想いだって事も、分かっているのに……。
「はぁ……私って駄目だなぁ……。こんな時こそ……ううん、そうじゃなくっても私がしっかりとしなくちゃいけないのに。名目上だけかも知れないけれど、私はリベルーチェ(ギルド)のリーダーなんだから!」
自分自身に喝を入れるように、両手でペチペチと頬を叩く。それで完全に不安が消え失せる訳ではないけれど、少しは前向きな気分になった気がする。
それと同時にイラが「ん、うぅん……い……な……で……。」とうなされながら、頭部だけが私のいる側へと少し傾き、おでこに乗せてある濡れたタオルも布団の上へとずれ落ちてしまう。
「もしかして起きて――る訳じゃないよね。」
私は少し驚きながらも、ずれ落ちたタオルを回収して桶にある水で冷やし直してから再びおでこに乗せる。すると気持ち良かったのか、うなされていたイラの表情が少しだけ柔らかくなったような気がし、「うぅ……むにゃ、むにゃ……」と安定した寝息に戻った。
そんなイラの様子に私は少しだけ安堵を覚えながら、タオルを冷やし直した際に桶の水が僅かではあったけど、温くなっていた気がしたなと思い、右手を水の中へと入れて再確認をする。
「……やっぱり、少し温くなってるかな。いつの間にかお昼も過ぎちゃっているみたいだし、イラが目を覚ました時の為にお粥も作り直しておいた方が良いよね。」
誰に聞かせる訳でもなく、自分で確認をするように呟きながら椅子から立ち上がり、部屋から出ようとイラに背を向けながら扉の方へと歩み出す。その瞬間――
「行か、ない……で……。」
ポツリと聞こえたか細い声。その声があまりにも弱々しい呟きだったものだから、その言葉を発したのがイラだと言う事に気付くのに時間がかかってしまった。
私は歩みを止めて振り返ったが、イラは眠ったままの様子だった。けれど、先程までとは比べ物にならない程にうなされている様子で、良くなっていた筈の顔色は再び悪くなっていた。
その様子に何か嫌な予感を覚えた私は部屋を出ようとしていた事も忘れ、反射的にイラの元へと戻ろうと歩み始めていた。
「おかーさん……おとーさん……。」
「えっ……?」
そうして歩み寄っていると、イラがうなされながらに言葉を綴り続ける。けれどその言葉があまりにも予想外な言葉だったせいか、私は驚いて立ち止まってしまい、両手で持っていた筈の桶が零れ落ちて「カコン」と音を立て、桶に入っていた水が足元に流れ出してしまった。
けれどそんな事を気にする余裕は私の中に残っていなかった。
だって、イラは記憶喪失なのだ。昔の記憶は何一つ残っていないと言っていて、家族の事も覚えていないって言っていた。だからそれが夢だったとしても、彼の口からお母さんやお父さんと言う言葉が発せられた事に、強い衝撃を受けてしまった。
いや、ずっと考えていた事だ。いつかイラが記憶を取り戻したらどうしよう。その時、本当に大切な居場所や大切な人の下へと帰りたいと言い出したらどうしよう。
今までに何度も考えて、その度に自分の考えをイラに押し付けるのは良くないと分かっていながら、考え続けている内にどうしたらイラとずっと一緒にいられるかを考えてしまい、結局その都度保留にし続けていた事だ。
そしてタイガの森での一件でイラを繋ぎ止める為の手段として、告白をして恋人になるという方法を思いついてしまった。
しかしどれだけ考えても、自分がイラに対して恋愛感情的なものを持ち合わせているのかが分からなかった。その確信を得るまでは、彼を繋ぎ止める為だけの嘘の告白は絶対にするまいとも思っていた。
だって私がイラに対して一緒にいて欲しいと思っているこの感情が恋とか、愛とかそう言ったものではなく、ただの仲間意識でしかないのなら、それは彼に対する冒涜で、裏切りで、欺きであり、そうまでして繋ぎ止める事が正しいとは思えなかったから。
独りになりたくないという恐怖心と仲間がいるという安心感を無理矢理に結び付け、それを恋心だと思い込んで嘘の告白でイラの心を縛り付ける。そんな事が正しいとは思えなかったし、そうまでして一緒にいようとは思っていない……と信じたかった。
けれど、今は――
「まって、よ……いかない、でよ……。」
思考する私を他所に、うなされている様子のイラが寝言を零し続ける。
そうして眠ったままのイラは何かを探し求めているかのように左手を上へと伸ばす。けれど、その手は何も掴めないままにベッドの外へと落ちそうになって――
「イラ……?」
何故かは分からないけれど、直感でその手を掴まないといけない気がした私は、イラの手が落ちきる前に急いで間合いを詰めると、自分の右手を差し伸べる。そうして届いた私の右手は、落下しかけていたイラの左手を受け止めた。
「いか、ないで……。…………は、……やだよ……。」
「……うん。分かった。ここにいるよ。私はきみの親じゃないけれど……それでも、イラの傍にいるよ。私がそうしたいから、きみがそうしてくれたから。それに――」
イラの言葉の全てが聞こえた訳ではなかった。けれど、うなされているイラの様子は、何かを恐れたり、嫌ったりしているようにも見えて、まるで今にも消えてしまいそうな程に弱々しい姿だった。
「――イラの事が、好き、だから……。」
私はイラが消えてしまわないように、繋ぎ止めるかのように、無意識の内にずっとずっと隠していた想いを口走ってしまっていた。
(っ、私……何を言って……)
時間差で『好き。』と、その言葉を口にしたと言う事を自覚してしまった私は――例え相手がその言葉を聞いていなかったとしても――次いで顔が火を噴き出しそうな程に熱くなった事を自覚する。
同時にその反応こそ私が心の奥底から強く思っている本心だと言う事、彼を繋ぎ止める為だけに吐いて出た嘘の恋心などでは決してない事も。
本当はずっと分かっていたのかも知れない。私がイラの事をどう想っているか、なんて事は。
一人旅を始めてからの九年間、私はずっと孤独だった。どこに行っても【蒼い疫病】という根も葉もない悪い噂話が流れていて、それ故に私はローブとフードで正体を隠しながら旅を続けた。
そんな旅の中で初めて私の存在を受け入れてくれたのが、イラだった。
記憶を失っていた彼は、私の髪や瞳の色を見ても怖がらず、普通に接してくれた。
「ツァーイ。」と名前を呼んでくれる事も、「イラ。」と誰かの名前を呼んだら返事をしてくれる事も、朝起きたら「おはよう。」と、夜寝る前には「おやすみ。」と挨拶をしてくれる事も、手を握ったら握り返してくれる事も、同じ仕事をして、同じ景色を見て、同じ物を食べて、同じ日々を過ごす。
それらは決して特別な事ではないのかも知れない。だけどそんな当たり前のように、普通に接してくれる事がとても暖かかった。
【蒼い疫病】と言う曰く付きの噂話を気にせずに、ありのままの私を見てくれる事が泣けてしまう程に嬉しかった。
気が付けば支えてくれた手を手放せなくなる程に私はきみに甘えてしまっていて、失ってしまう事が、求められなくなる事が、何よりも恐ろしかった。
一日、また一日と、時間を共有し続けていたら、毎日、少しずつ、イラの事が好きになっていた。人として、仲間として、男の人として。
視界に姿が見えないとそわそわしてしまっていて、一緒にいる事が当たり前になっていて、いつかは別れの時が来るかも知れないと覚悟はしていても、胸のどこかでこれから先もずっと一緒にいられるものだと期待してしまっている自分がいた。
気が付いた時にはイラに恋をしていたのだ。
けれど故郷を失ってから長い事他人と繋がる事が出来なかった私は、そんな簡単な事を認識する事が出来なかった。
友情と愛情の違い、仲間に対する意識と異性に対する意識、その違いさえも理解出来ていなかった。或いは出会った当初からしばらくの間は、本当に前者だったのかも知れない。
だけど行動を共にする中で――ううん、恐らくはイラが私の過去を受け入れてくれた時から、私はずっとイラの事が好きだったのだ。
だけどそれが仲間に対しての物なのか、恋愛的な意味でなのか、それさえも分からずにいたから結局気付く事は出来なかったのだと思う。
皮肉にもその想いをハッキリと認識出来たのは、多分【強欲のアワー】との戦いがキッカケだ。イラが負傷し、死んでしまうのではないかと思った時に感じたイラを失いたくない、これからもずっと一緒にいたい、どんな事をしてでも、自分がどうなったとしても、彼を救いたい。
その想いがそれまで自分が思っていた以上に大きな物なのだと、気付かされずにはいられなかった。その一心で生まれたホーリーヒールが私の想いの証明でもあるのだろう。
その後はイラが紅い瞳を灯して暴走してしまう事にはなったが、最後には全員無事に生存をする事が出来て、けれどイラだけが眠ったままで、生きた心地がしなくて、ずっとずっと苦しくて、辛くて、悲しくて、寂しくて、彼の全てが恋しく思えていた。
二日後にイラが目を覚ましてくれた時に、私がどれだけ安堵した事か。どれだけ嬉しかった事か。その後で私を傷つけてしまったから、とイラが落ち込んでしまって普段通りに戻るまで時間はかかったけれど、それでもきみが無事に目覚めてくれただけで、どれだけ安心出来た事か。
あの時からずっと、いつかきみにちゃんと伝えようとも思っている。けれどすぐに村の復興で忙しくなってしまって、その後もタイミングを上手く掴めずに結局はまだ言えずにいる。
リべルスの末日に行われたお祭りの時、イラが「僕がツァーイをこれからもっと幸せにしてみせるから。」「ツァーイの為になら何でもするから。」なんて、まるで口説き文句のような言葉を口にしたものだから、雰囲気に呑まれてついつい言ってしまいそうにはなった。けれどあの流れで告白をしてしまったら、イラが私をどう想っていたとしても、彼はきっと私のお願いを恩返しの一環として受け入れてしまうのではないかと思えてしまって、結局言い出せなかった。
結局今も無反応でイラの眠っている様子を見て落胆する反面、聞かれなくて良かったなぁ、等と安心してしまっている自分もいるのだから、一周回って自分でもちょっと面倒な性格をしているよね……とも思ってしまう。
「……大丈夫だよ。私がきみを守るから。」
それでも私はイラの手を掴んだまま、意識のない彼に向かって語りかける。
これもやっぱり眠っていて聞こえてはいないのだろう。けれどイラが優しく手を握り返してくれた気がした。先程まであれだけうなされていたと言うのに、いつの間にか表情も落ち着いた様子になっていて、寝言も「すぅ……すぅ……」と安定した吐息に落ち着き始める。
もしかしたらイラの意識に言葉は聞こえていないのかも知れないけれど、無意識下で想いは伝わっているのかも知れない。なんて、考えてしまって「ふふっ。」と笑みが零れる。
「全く、普段からこの位甘えてくれたって良いのに……。」
私とイラの関係性はリベルーチェのリーダーとメンバーだったり、保護者と身寄り不明の記憶喪失者だったり、傍から見たら上下関係があるとも言えるかも知れない。だけど私が本当に望んでいるのはそう言った上下関係ではなくって、対等な関係だ。
「私に気を遣わなくたって良いんだよ。」そう言ってもイラは私に対して恩人だから、と言って恩返しをしようとする。その事自体は、勿論イラなりに私の事を想っての事だから嬉しくないと言えば嘘になる。けれど、それは、イラが私に対して気を遣ったり、遠慮をしているという事の表れでもある。
だからこんな風に甘えた様子のイラがどこか珍しくって、いつでもこんな風に甘えてくれたら良いのにと思えてしまう。
(けど桶の水を換えたり、お昼のお粥の準備が出来ないなぁ……。まぁ、イラの様子が落ち着いてからでも良いよね。)
そう結論付けた私は椅子に座り直して、イラの手を握り続けながら「すぅ……すぅ……」と眠り続けている彼の寝顔を眺め続けた。
「ん……うんっ……ふわぁ……。」
「あっ、おはよう、イラ。」
「ううん……おはよう、ツァーイ。」
次にイラが目覚めたのは、お昼を過ぎてからだった。
私はと言えば、結局ずっとイラの傍についているだけで、桶の水替えやお粥の準備は進んでいないままだった。……と言うのも、一度だけ「イラの寝息も安定したみたいだし、そろそろ桶の水替えとお粥の準備をしておこうかな……。」と思ってイラの手を離そうとしたら、イラの握力が少しだけ強まってしまって手を離すに離せなかったからだ。
最初は「もしかして起きているのかな……?」とも思って呼びかけたり、人差し指で頬を小突いたり、くすぐってみたり、色々試してみた。けれど何をしても目が覚めないイラの様子に、私は間違いなく眠っているとしか思えなかった。
そんな風にイラは眠っているとしか思えないイラのどこからそんな力が出ているのかも分からないけれど、まるで「どこにも行かないで」とでも言わんばかりの握力に私はついつい「しょうがないなぁ。」とそれを許し続けてしまった。
容態が悪化している様子はなかったし、先程のうなされている様子もあって私の方から無理矢理に手を離すなんて事は出来る訳がなかった。……いや、イラの事が心配なのは本当だけど、私はそれと同じ位、イラに頼られている事を嬉しく思ってしまっていて、気が付けば私の方がイラの手を離したくないと思っていた。
「……もしかして、ずっと一緒にいてくれたの?」
かくして目が覚めたばかりのイラは、何も知らないように暢気な様子だった。まぁずっと眠っていた訳だから当然だし、病人としては安静にする事が一番だから、それが正しいのだけど。
だから私がどこか釈然としないような気分を胸の奥底で感じてしまっていても、それは私の我が儘でしかない。ましてや病人である今のイラにその感情をぶつけてしまうのは、理不尽を通り越して拷問にも近しい行為だ。
私はこれ以上イラを衰弱させてしまうような事をしてはいけない、とモヤモヤした感情を押し留める。
「うん。」
「そっか……ありがとう。」
「どういたしまして。……それよりも体調はどう? 少しは楽になったかな?」
私の言葉にイラは「んー……」と自分の右手をおでこに乗せながら何かを確かめて、数秒程そうした後で言葉を続けた。
「……少しだけ、楽にはなったかも。流石にいつも通り……って訳にはいきそうにないけどね。」
「あははっ……。」と乾いた笑みを浮かべながら言う通り、イラの体調はまだまだ全快には程遠いようだ。けれど寝付く前と比べれば、言葉通りに少しは回復しているようにも見えた。
「そっか。少しでも良くなっているのなら良かったよ。……でも今日明日にすぐ治るって訳でもないだろうし、治ったとしてもしばらく様子見はするから、絶対に無茶はしないでよね。」
「うん、分かっているよ。」
「それじゃあ私はお昼ご飯を作りに一度下に行くから、ここで待っていてね。出来るだけすぐに戻って来るから。」
「はぁい。」
私は、ずっと繋いでいた手を(名残惜しくはあったけど)離し、さっき落としてしまった桶を回収して部屋を後にした。
ちなみに零れた水は別のタオルで拭き取っておいた。幸いただの水なので、床に染みをつくるような事にはならないと思う。
そうして一回に戻った私は、厨房で再びお粥の調理を行った。
さっき作ったお粥は食べやすいように塩で軽く味付けをするだけに止めておいた。けれどイラの体調が少しだけ回復したようなので、今度は具材として卵も使う事にした。このままイラの回復が順調に進むようなら、その都度食べ易い具材を足したり入れ替えたりしても良いかも知れない。
イラは美味しいと言ってくれたけど、同じ味付けばかりだと食べ飽きられてしまうかも知れないし。何より私の作った料理をイラが笑顔で美味しそうに食べてくれるのが嬉しいから、工夫のし甲斐はある。
そうこうしている内に、本日二度目となるお粥作りは何事もなく順調に終わった。
朝食の時とは違って今度は私の昼食も兼ねているので、作ったお粥の量もほぼ二倍の量だ。別に私は風邪を引いている訳ではないので病人食のお粥を食べる必要はないのだけど、イラの目の前で普通の食事を食べるというのも気が引けるし、ファクトやフェアリもまだ帰って来ていないから無理に普通の食事を用意する必要もなかったから、そうする事にした。作る料理を増やしたらイラの所に戻るのにかかる時間も長くなっちゃうしね。
また調理の合間に桶の水の交換も済ませて、他にやる事がない事を確認してから私はイラの部屋へと戻って行った。
「お待たせ。お昼のお粥を持ってきたよ。」
「ありがとう、いただきます。」
私からお椀を受け取ったイラは、やっぱり「ふーっ、ふーっ」と何度も冷ましながらゆっくりと食べ進めている。美味しそうに食べてくれるイラの姿を傍目に、私も自分の分を取り分けたお椀を片手に持ってお粥を食べ進める。
そんな中で「そう言えば……」とイラが何かに気付いたように言葉を発した。
「朝ご飯の時は、卵が入ってなかったよね? 味付けも少し変わってるみたいだし……わざわざ変えてくれたの?」
「うん。イラが本調子に戻るまではお粥ばかりになると思うし、ずっと同じ物だと飽きられちゃうかと思って。」
「そっか……ありがとう。……でもツァーイが作ってくれた物を食べ飽きる事なんてないと思うけどなぁ。もしもずっと同じ料理しか食べられなかったとしても、ツァーイの手料理なら飽きたりしないよ。」
「えっ……!? そ、それって、どういう意味……!?」
何気ない様子で呟かれたイラの言葉に私はドキッとしてしまって、つい反射的に少しだけ前のめりになりながら問いかけてしまった。
だって、言い換えてしまえばそれはまるで、私の手料理を毎日食べたいとも言えるような言葉で、そう言った意味合いの言葉は結婚申請に用いられるような言葉でもあって――
「だってツァーイの作るご飯、すっごく美味しいから。」
けれどイラの返事は彼らしいと言うか、何と言うか、ある意味平常運転の他意が無い様子の言葉だった。
「そ、そっか……。うん、そう言って貰えると私も作った甲斐があるよ。ありがとう。」
うん……何となくそんな事じゃないかと分かっていたけどね。ホッとしたような、少し残念なような、複雑な気分。
それでもイラに喜んで貰えるのは嬉しいし、まるで無邪気な子供のように裏表のない様子で褒められるのは悪い気がしない。実際に私が喜んでしまっているのも確かだ。
その後も私達は昼食を食べ進めながら、時折雑談を楽しんだ。イラの体調が普段通りではないから、いつもと比べたら黙々と食べ進めている時間の方が長かったけれど。
そうして結局二人でお粥を完食してしまい、食後に本日二度目となる薬をイラに飲ませ終えた。
「流石にさっき起きたばかりだし、すぐには眠くならないなぁ……。」
どこか乾いた笑い声でイラがそう呟いた。確かに朝から寝ては起きて、起きては寝て、その間にしたことと言えば食事と薬を口にしただけだから、イラの言う事も当たり前と言えば当たり前だった。
食後に飲ませている薬には眠気を誘う成分も含まれているので副作用気味に眠気も誘発している筈なのだけれど、あくまでも風邪を治す為の薬であって眠り薬ではない。だから眠りから目覚めて間もないイラには効果が薄く、すぐには眠れないようだった。
それでも私としてはイラに出来るだけ安静にしていて欲しいし、その為には沢山眠っていて欲しいとも思う。だけど、だからと言って風邪が治るまでの間は食事の時間以外ずっと眠っていて、だなんて言うのは無茶というものだ。
「ねぇツァーイ……? 少しだけ剣の素振りをしたりとかは――」
「駄目だよ。」
「……じゃあ魔法の練習とかは――」
「駄目だよ。」
だからと言ってウズウズソワソワとした様子で体力や魔力の発散をしようとするイラのお願いを、承諾する事が出来る訳もなかった。
今朝の状態よりは回復しているように見えるが、ただの風邪や熱と言ってもこんな短時間で完治する訳はないし、何よりイラの体調が悪化したり、また階段から落下するような危険な目に合わせる訳にもいかないのだから。
イラも「むぅ……」と口を尖らせているけれど、本気で許して貰えるとは思っていた訳ではないようで「……はぁ。だよねぇ……。」と諦めた様子で溜息を吐き、次の瞬間には「けほっ……けほっ……」と咳き込んでいた。やっぱりイラには安静にして貰わないと。
「風邪が治るまでの我慢だよ。イラの風邪が治ったら、今日頑張ってくれているファクトとフェアリも休ませて上げないといけないし、その時には二人の分まで頑張って貰うから。」
「うん。……分かったよ。」
その代わりと言う訳じゃないけれど、私達は他愛のない会話を続ける。
時折イラは「けほっ……けほっ……」「ごほっ……ごほっ……」と咳をしていて、私はその度に会話を切り上げようとしたけれど、何を話さずともイラが寝付けない様子で退屈そうにしているものだから、私は「イラが眠るまでだから……」と自分に言い訳をして、イラの咳が落ち着いた頃に結局会話を再開してしまう。
イラの体調は心配だけれど、結局の所こうしてイラと過ごす時間が私は大好きで、彼に対して少しばかり甘くなってしまうのは仕方がないのだろう。
そうしてしばらく会話を続けた所で、私はそれまで意図的に避けていたある事をイラに問いただす決意を決めて、話を切り出した。
「ねぇイラ、聞きたい事があるんだけど良いかな……?」
「うん……? どうかしたの?」
「えっと……あのね……」
「ツァーイ……?」
そのつもりだったのに、やっぱり聞くのが怖くもあって言葉が詰まりかけてしまう。そんな私に対して、イラはどこか心配そうに呼びかけてきた。
そんなイラの様子に、私は本調子ではない彼に余計な心配をかけさせて、体調が悪化したらいけないと思い詰め、しどろもどろになりながらも、どうにかして言おうとしていた言葉を告げ始める。
「……私と出会う前の記憶って戻っていたりしていないの? その……例えばイラの家族の事、とか……。」
「え……? ううん、何も思い出していないけど……急にどうしたの?」
私の言葉に困惑した様子で聞き返してくるイラ。
そんなイラの言葉に私は二つの感情を感じていた。一つはイラの記憶が戻っていない事を残念がりながら、心配をする気持ち。
もう一つはイラの記憶が戻っていない事に対する安堵。イラがイラだと言う事に安心を覚え、何よりまだまだ今まで通りにイラと一緒にいられると言う事が分かって、私はホッとしてしまったのだ。
自分でも酷い女だと思う。本当ならイラの記憶の回復を願うべきなのに……私は、私がイラと一緒にいたいからという感情を優先させてしまっていて、心のどこかでイラの記憶がこのまま戻らなければ良いのにと思ってしまっている……。
勿論イラの記憶がいつの日か戻れば良いのにと、彼の記憶の回復を願う気持ちもある。
だけど、それでも私が本当にイラの事を想っているのなら、本当に好きだと想っているのなら、イラが記憶を取り戻さない事に安心するべきじゃないのに……。
「……実はイラが眠っている時に、言ってたの。「お母さん、お父さん。待ってよ、行かないでよ。」……って。だから、もしかして何かを思い出したんじゃないかなって思ったんだけど……。」
私は後ろめたい気持ちを隠しながら、せめて嘘や隠し事だけはしないようにしようと決めて、イラが呟いていた寝言を彼自身に伝える。
「お母さんとお父さん……?」
その言葉にイラはしばらく何かを考えるような素振りをしながら「お母さん、お父さん……お父さん、お母さん……」などとその言葉を噛み締めるようにぶつぶつと呟き続けた。
けれどしばらくそうした後に溜息を吐くと、「うーん……駄目だ、やっぱり何も思い出せない……。」と諦めた様子で呟いてから言葉を続けた。
「何となく嫌な夢を見たような、見てないような……そんな気はする、けど……。でもどんな夢を見ていたのか、全く覚えていなくって……。」
「そっか……。イラがその寝言を呟いていた時、苦しそうにうなされていたから心配だったんだけど……。」
「そう言われても覚えていないものは、思い出せないよ……。」
私の言葉に困ったように苦笑いを浮かべるイラ。
確かに眠っている状態の自分を見る、なんて事は不可能だし、目覚めた時に夢を忘れてしまうと言うのもそう珍しい話ではないので、私の見ていたイラの様子を彼自身に伝えても、それは要領を得ない話でしかないのかも知れない。
だけどその一方で、良くも悪くも強い衝撃を与えるような夢が簡単に忘れられるものだろうか? とも思ってしまう。
私自身が故郷の滅びた様を、《サイス》に蝕まれて朽ちてしまった両親や友達の遺体に関する悪夢を(イラと出会ってから回数は減っているけど)今でも時折夢に視てしまっていて、他の夢は別としてもその悪夢だけは目覚めた後もハッキリと覚えていて、私の心に痛みを与え続けている。
だからあれ程苦しそうにうなされていたイラの悪夢と思わしき夢。それも自分の両親に何らかの関連性を持っているであろうものを、例え記憶喪失だとしても目覚めた時に何一つ覚えていない……なんて事があるのか、と心のどこかで疑ってしまっている。
勿論イラの言葉を信じていない訳ではないけれど、イラは誰かを助ける為なら無理や無茶をしてしまう所がある。ファングの街の協会から逃げ出した時、タイガの森でフェアリと出会った時、フリーダ村を見つけて【強欲のアワー】と戦う事になった時。
その何れもがイラ自身を危険に晒していた。魔力の枯渇による衰弱死の危険性、冒険者情報やレベルから適正とは思えない格上の魔物や人との戦闘。それでもイラは私や皆を助ける為に無理をして、無茶をし続けて来た。それでも今の所は結果的にだけど何とかなっている。
だがそれも無理や無茶を押し通すだけの代償を支払っての事だ。魔力を枯渇して意識を失ったり、血を流して、自分の身の安全性を投げ捨ててまで敵を討つ=仲間の無事を優先したり。そうする事によって私達はイラに助けられていて、その代償として何かある度にイラは倒れたり、死にかけたり、彼の命と存在を幾度となく失いかけながらも何とかこの日常は保たれている。
そんな風にイラは誰かの為となれば簡単に自分を捨てる事が出来てしまう。それ自体は美徳とも、彼の魅力とも言えるかも知れない。私だってイラのそういう所を好ましく思っていて、けれどその反面でイラには危険な事をして欲しくないとも思っている。そしてイラがそういう人だからこそ、きっと彼は自分自身の痛みや苦しみ、悩みといった物が出来た時に一人で抱え込んでしまうのではないかと心配になってしまう。
現に【強欲のアワー】との戦いの後で目覚めたイラは、戦いの最中に私を傷つけてしまった事で自責の念に囚われていた。それまで見た事がなかった彼の泣き顔もあれ以来見る機会が増えてしまっている。今日だって風邪で弱っているとは言え、いや弱っているからこそなのか、今朝のお粥を食べている時に泣きながら笑っていた。けれどあの涙と笑顔に隠された本当の意味は、分からないままだ。
それに『強欲の加護』が能力欄に増えている事に気が付いた時もイラの様子がおかしかった。
それまで隠し事をしようという素振りがなかっただけに、あれからたまにではあるけれど、イラが本音や本心を隠してしまっているのではないか、自分の悩みや苦しみを表に出さないようにしているのではないかと考えて不安になる。
彼に言わせればイラが私や皆の為に自分の身を危険に晒してまで頑張ってくれているのは、恩返しの一環に過ぎないのかも知れない。けれど私に言わせれば、本当にもう十分な程に返して貰っているのだ。それ所かイラから与えられた沢山の暖かい感情や思い出を、私が彼に返して上げたいと思える程に。
だけど何度それを伝えようとしても、その度にイラはまだ返したりないからと自分を犠牲にし続けようとする。きっとこの先も何かある度に、彼は自分を犠牲にしてでも私達や誰かの為に行動をし続けるのだろう。それでもそれが彼の本心だったとして、イラが自己犠牲の道を歩み続けて良い理由にはならない。
もしもイラのそうした信念が『私達に迷惑をかけたくないから』と言い聞かせて自分の心の奥底に痛みや苦しみと言った負の感情を閉じ込めて、押し殺してしまおうと一人で抱え続けているのなら、そんな馬鹿げた事は止めて欲しいと思う。
何か抱え込んでいるのなら話して欲しい。
苦しいとか、痛いとか、そういった感情が少しでもあるのなら相談して欲しい。
悩み事があるのなら私を頼って欲しい。
もし私に言えない事なら他の誰かにでも構わないから、仲間を頼って話して欲しい。
だって、そうして貰えないのなら、私達が……私がイラの傍にいる意味がなくなってしまうような気がしてしまう。それは、恐いし、嫌だ。
私がイラの事を好きで、彼と離れたくないと思っていた所でそれは私自身の欲でしかない。その思いがどれだけ強かったとしても所詮は私の身勝手な我が儘でしかないし、今のイラは冒険者情報上では私のそれを完全に上回っていて、旅をしている間に冒険者として必要だと思える知識や技術を教え続けた事もあって、出会ったばかりの頃と同じ無知同然の記憶喪失の少年ではない。
それこそイラがその気になりさえすれば、一人でも冒険者としての活動を行う事が出来てしまう。所々危なっかしい部分はあるし、純粋無垢故に悪い人に騙されたり、陥れられる危険性もないとは言えない。それにどれだけ強くなったと言っても、一人であると言うだけでそれ自体が大きな危険性という事は私自身がよく知っている。
それでもイラがリベルーチェを離れようと本気で思ったら、もしもそうなってしまったら、今の私には彼を引き留められるだけの説得が出来ない。
だって私はイラの家族や昔からの幼馴染と言う訳でもなければ、恋人や夫婦のように特別な関係でもない。私とイラはただの仲間でしかなくって、私がどれだけイラの事を一方的に好いていても、イラが私の事を恩人だと言って感謝の念や好意を向けてくれていても、今の私達は、やっぱりただの仲間でしかないのだから。
それでも仲間である事には違いがなくって、だからせめて一緒にいられる間だけでもイラには私を、私達を頼って欲しいと思ってしまう。
だって私達が仲間になれたのも、こうして平凡で穏やかな日常を手に入れられたのもイラのお陰だ。勿論その全てが彼だけの手柄と言う訳でもないし、私やフェアリ、ファクトも含めた全員のお陰でもあって、私自身イラだけでなく、フェアリとファクトにも感謝はしている。そして多分だけどイラも、フェアリも、ファクトも、皆が同じようにお互いの存在に少なからずそういった感情を向けている筈だ。
けれどそんな風にこうして私達の道を一つに繋げてくれたのは、間違いなくイラのお陰だ。
私がイラと最初に出会った時、そして私が【蒼い疫病】だと彼に告げた時もイラは私を見放さずに一緒にいる事を選択してくれた。
タイガの森でフェアリに助けを求められた時も、他人と関わる事を恐れた私とは違ってイラはすぐに助けに応じようとしたし、半魔人であるファクトの異形の姿と暴走の危険性さえもイラは受け入れて、二人を仲間にする事を提案した。
もしもイラが私を拒絶していたり、そもそも私がイラと出会う事がなかったら私の道とフェアリ達の道が繋がる事は無かったかも知れない。一応はお互いにフリーダ村を目指していたから、この村に着いた後で道が繋がる可能性はあったかも知れないけど、四人で来なかったら確実に【強欲のアワー】の手によってそれぞれが個別に殺されていただろう。
その【強欲のアワー】に止めを刺したイラ本人がその事を分かっているのか、いないのか。イラは『強欲の加護』によって冒険者情報が私達を上回った現在でも私達に対してどこか遠慮をしてしまっている。
私は仲間になれた時からずっとイラを対等な仲間だと思って接し続けているし、私の目から見てもフェアリ達もそうしているように感じる。
どんな街や村に行っても存在そのものを忌避され続け、本心を押し殺して沢山の孤独を味わってきた私達にとって、傍にいてくれる仲間の存在がどれだけありがたいのか、言葉で説明は出来ても、過去を失っているイラには、きっと本当の意味で理解が出来ないのだろう。
だから出会った時からイラはずっと私やフェアリ達の事を、対等ではなく格上の存在として認識してしまっているのかも知れない。今となっては『強欲の加護』の影響でその強さは逆転してしまっているけれど、それでもイラは私達への態度を変えようとはしない。
だから未だにイラは私達に遠慮をして頼ってくれない。
勿論これは私の勝手な考えであって、ただの推測でしかない。
もしかしたらイラが私達に頼ろうとしない理由は別にあるのかも知れないし、或いは私の思い違いでイラには悩み事や隠し事、痛みや苦しみなんてないのかも知れない。
それでも私の中で、つい数時間前の眠っているイラの姿が脳裏から消えてくれない。
悪夢にうなされている様子で、私の手を掴んで離そうとしなかったあの姿こそがイラの本心なのではないのか。本人が思い出せないと言う程度の夢なのかも知れないけれど、私はそうとしか考えられなくなっていた。
だからイラが頼ってくれない事が悔しくて、悲しくて、寂しくて堪らない。今の生活がいつまで続くのか、いつか唐突に終わってしまうのか、それとも死が皆を分かつまでずっとこのままでいられるのか、それさえも分からないのだから、せめて、こうして、一緒にいられる間は頼って欲しいし、甘えて欲しいよ……。
私がそんな風に心の中で思っている等とは知らずに、しばらく何かを考えていたイラが代わりに困ったような表情を浮かべながら「でもね……」と言葉を再び紡ぎ出す。
「胸の奥でモヤモヤしたような、嫌な感情みたいなのは少しだけ残っている……ような、そうじゃないような気もするんだ。……最初にツァーイと出会った時からずっと感じていた『記憶を思い出しちゃいけない気がする』って気持ちも、何だか膨れ上がっているような気がするし、少し落ち着かない、かも。」
その言葉が本当ならイラの記憶には残っていなくても、その心の奥底には悪夢の残滓のようなものが残っていると言う事になる。
そう言ったイラの表情は、悲しそうとも、苦しそうとも、辛そうとも判断の付かないものであり、その複雑そうな表情を見れば、イラの言葉に嘘偽りがない事がハッキリと分かってしまう。
しかしそんな表情を浮かべていたのも一瞬の事で、イラは私に笑みを向けながら「だけどさ」と言葉を続ける。
「目が覚めた時にツァーイが傍にいてくれて、凄く嬉しかったんだ。旅をしていた時は当たり前の事だった筈なのに……今も殆どずっと一緒にいる筈なのに……そんな当たり前の事が凄く暖かくて……えっと、だからさ……ずっと傍にいてくれて、あり、がとう……。」
そう言いながらも途中から薬の副作用が効いてきたのか、コクリ、コクリと舟を漕ぎ始めて眠りに堕ち始めたイラは言葉を言い終えると「すぅ……すぅ……」と眠気に負けてしまったようだ。
私はそんなイラの手を掴む。すると先程と同じように眠っていて意識が無い筈なのに、イラの手は私の手を強く、それでいて優しく握りしめて離そうとしなくなった。
「お礼を言いたいのは私の方だよ。イラ、ずっと一緒にいてくれてありがとうね。」
本当なら、私はイラの記憶を取り戻す手伝いをするべきなのだ。
失った記憶を取り戻す……なんて、どうすれば良いのかも分からないけれど、例えば世界中を旅してイラの事を知っている人を探すとか、イラの記憶が刺激されるような縁の土地を探すとか。多分そんな感じに行動を起こして、イラの記憶を探しに行くべきなのだ。
そうしていつの日にか記憶を取り戻させて、きみが本来いるべき場所に返して上げないといけない。その筈なのに、私はそうしようとはせず、仕事をこなす時以外は村の外に出ようとはしていないし、出たいとも思えていない。
それは単に他の街や村では【蒼い疫病】と知られない為にしなければならない為、行動にある程度の制限がかかったり、気を引き締める必要があるからと言う側面もある。
居心地の良い安全な場所と、僅かな不注意で何の繋がりもない大衆から誹謗中傷や罵倒を浴びせられ、時には命さえも狙われるような危険な場所。そのどちらかを選べと言われれば、多くの人は間違いなく前者を選ぶ。
極稀に自暴自棄になってしまっているような人が死に場所を求めて後者を選ぶような事もなくはないが、今のツァーイの精神力はイラ達のお陰もあって死を求める程に追い詰められてはいなかった。
「……私ね、きみがいないと駄目なの。もう独りには戻れないの……。」
意識してそう言おうと思った訳ではなかった。なのに気が付いた時にはポツリ、と言葉が零れ落ちていた。その言葉が引き金となって、胸の奥底から沢山の気持ちが溢れて出す。
故郷が滅び、旅立つ事を余儀なくされ、なのに私の容姿は【蒼い疫病】として世界中に悪評として拡散されていた。
髪と瞳の色が珍しい事もあって正体を誤魔化すにはフードとローブで素顔を隠さなければいけなくなった。
けれどそんな風に素顔を隠して、彼方此方を渡り歩いて、九年間も独りぼっちの旅を続けていれば、人肌恋しく思ってしまうのは必然だ。
元々私は故郷にいた時から家族や友達がいつだって傍にいてくれて、独りには慣れていなかった。そして大切なその全てを一度に失ってしまったのだから、そう感じてしまうのは尚更当たり前の事だった。
そうして独りぼっちの九年間を世界に強いられて、その果てに私を受け入れ、慕ってくれるイラと出会った。
死んだように眠る少年を見た時はフードで素顔を隠す事も忘れる程に焦ってしまったけれど、記憶喪失のイラは【蒼い疫病】を知らなかった。
久々に触れた温もりが心地良くて、手放したくなくなってしまって、私が【蒼い疫病】だと知ってもイラは私への態度を変えようとはしなかった。そして今では他にも仲間が出来て、旅の目的を果たす事も出来て……する事も、知る事も、一生出来ないだろうと諦めていた恋をしている。
イラが私の事をどう想っているのかは分からない。
仲間としては好かれているし、慕ってくれている。何せ事ある事に恩返しをしたいと言ってくる程なのだから。それに彼の一挙一動を追っていれば、少なくとも嫌われてはいない。それだけは間違いないし、自惚れでもない……と思いたい。
だけどイラはただの一度も私の事を女性として見ている素振りを見せない。作った料理を美味しいとは言ってくれるし、私を大切に思っている素振りを見せる時はあるけれど、「可愛い」とか「綺麗」とかそう言った言葉をかけられた覚えはなくって、なのに時々「幸せにしてみせるから」なんて口説き文句のような事を言うから勘違いをしそうになって、その癖イラはなんて事のない様子で普段通りに振る舞っているように見えるから彼の本音がどこにあるのか分からなくなってしまう。
それでも、今更独りだった頃――イラと出会う前――の自分に戻る事なんて出来る筈もなくって、今この時、この瞬間が少しでも長く続いて欲しいと、ただそれだけを求め、考えてしまっている。
もしかしたら私がしている事は間違っていたり、正しい事ではないのかも知れない。心の何処かでそんな風に考えてはいる筈なのに、見て見ぬふりをしてしまっている。
(ごめんなさい。イラのお父さん、お母さん。きっと今もこの世界の何処かでイラの事を心配しているだろうし、もしかしたら探しているのかも知れない。……けど、私にはイラが必要なんです。……だから今だけ、イラが記憶を思い出すまでの間は、一緒にいる事を許して下さい。いつの日かイラが記憶を取り戻したら、その時は私がイラを連れて帰ります。だからその時までは……。)
穏やかな眠りに包まれて微睡んでいるイラの手を握りしめながら、ツァーイは顔も名前も知らないイラの両親に思いを馳せ、まるで懺悔をするかのように心の中で呟いた。
けれど真実はいつだって残酷である。少女は知らず、少年は思い出せない。
少年が本当に帰るべき場所がこの世界には最初から存在していない事も、彼が夢の中で求めていた両親が既に帰らぬ人となっている事も、二人はまだ知らない。
それでも世界は不変であり、時はただ進み続ける。止まる事なく、零れ落ちるように。
この後ツァーイの献身的な看病のお陰でイラは二日後の朝には風邪を完治させた。
それでも病み上がりの可能性を懸念したツァーイ達の提案で更に二日、イラは家の中でノンビリと安静に過ごす事になる。
そしてその次の日にようやく仕事に復帰する事を許可され、それまで休んでいた分を取り戻すかのように反逆の大剣を振るい、魔法を放つイラの姿が目撃されるようになったとか。
約一月ぶりの更新……五十五話を書き上げた翌日に五十六話も書き上げられたので、正直な所もっと早く書き上がるだろうなぁ……と高を括っていたらこれですよ……!
とは言え三話に渡って続いていた『イラ、風邪をひく編』も今回で完結し、この第四章での話も後一つのエピソードを残すだけとなりました。
※後々気が向いたら設定だけは作ってある村人達との交流話を差し込んだりするかも知れませんが。
その上で先に言っておく事が一つあります。
次のエピソードの話の投稿が終わって第四章の更新が完結次第、校正作業に入る為にしばらく更新が停滞する事になると思います。
元々自分は小説家を目指すにあたり、○○文庫等のコンテストに応募すると言う方法を一つの目標にしており、その為のモチベーションを維持する為にも当サイト『小説家になろう』を利用して来ました。こうしてネットの大海に自分の作品を投げ出してしまえば逃げ道も塞げそうな気もしましたしね。
そしてこの第四章で本作品『人格喪失者、それは記憶喪失を望んだ者』の話に一つの区切りが付く事もあって、ここまで書いたら改めて校正作業をしてどこかのコンテストに挑戦しようと当初から考えていました。
コンテストによっては文字数制限があったり、無かったりします。それによって校正作業で話の一部をどの程度カットするのか等の作業時間も変動しますので、どの程度かかるかは分かりませんが応援頂ければ幸いです。
勿論校正作業が終わって応募までこぎ着けたら、コンテストの結果発表までは本作品を別のコンテストに応募する事が出来なくなります。なのでその時にはここで第五章以降なり、平行して新作品の執筆を行いたいと思っています。
長々と話してしまいましたが、次の話は出来るだけ早く上げようと思っているので、今後もよろしくお願い致します。




