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人格喪失者、それは記憶喪失を望んだ者  作者: 明進
第四章 平穏な日常、それは変化する力と心
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記憶五十六―孤独な時間、それは彼らのトラウマ―

 時は少しだけ遡り、一の月の五日と六日の狭間――つまる所、一の月の五日の夜中。

 その日もイラは上手く寝付く事に失敗し、自らの中で渦巻く様々な感情の波と向き合っていた。

 自分がツァーイを傷つけてしまった事への罪悪感、それによって自らへの嫌悪感が発生し、だとしても彼女に対する好意や依存心だけは無限とも言える程に湧き上がり続ける。

 そうして痛みに苦しみ、愛情を抑制し、自分の感情と戦い続ける事で、心はすり減らされて疲弊する。イラ自身が意識的に思考してそうしている訳では決してないのだが、結果的にそうなる事で眠りへと堕ちる事が出来ていた。

 そうして一度眠ってしまえば余計な感情や記憶に惑わされる事なく、朝を迎える事が出来る。朝になれば皆が起き始るから、ツァーイ、それにファクトやフェアリ、村の人達にも会える。

 記憶を失った状態で目覚めてからというもの常にツァーイと行動を共にしていたからか、孤独というものに苦手意識を持っていると気が付いたのは、旅の目的地でもあったフリーダ村で家を手に入れて、個室を与えられた日からだった。

 一人での時間というのも悪くはないし、極稀に誰の目も気にせずに羽を伸ばしたくなる。そう言った意見や感情も理解不能とまでは言わないし、思わない。

 けれどイラにとって一番楽しい時間と言うのはツァーイと一緒に過ごしている時間なのだ。ファングの高原で最初に目覚めた時からずっと一緒にいた彼女の存在が、イラにとっては何よりも大切で、救いで、心を揺さぶられ続ける当たり前の大切な時間。

 だからこそ、この小さな部屋で一人寂しく過ごす時間がイラは嫌いだった。

 皆には皆の生活ペース――例えばツァーイがリベルーチェ(ギルド)の資産や物資を管理したり、フェアリが恋愛小説に没頭していたり――というものがあるのだから、毎日四六時中誰かと一緒にいるという事が不可能なのはイラにも分かっている。

 けれどこの個室に一人でじっとしている時間は酷く退屈だ。まるで小さな牢獄のようだとも思える事がある程度に。

 そんなイラにとって、孤独の時間を潰してくれる眠りは一種の逃走であり、救いでもあった。だから不定期に訪れる眠れない夜、自らの心が浮き彫りとなってしまう孤独から逃げる手段である心痛による眠りも、ある意味では救いだった。

 自らの心を痛みに晒すその行為が正しいのか、間違っているのかは別として。今のイラにとってそれは、間違いなく救いだったのだ。


 そして一の月の六日の朝。


「ふわぁ……。はぁ……はぁ……。」


 普段よりも少しだけ遅い時間に起床したイラは、短い欠伸をすると共に不自然な気怠さを感じていた。

 それでも気にせずに着心地の良い寝間着から、戦闘用の軽装型の魔装へと着替える。何故か足元がフラフラしたり、立ち眩みがした事もあって着替えに手間取ってしまったけれど、何とか着替える事に成功する。

 扉を開けて自室から渡り廊下に出ると、既に下の階から美味しそうな朝食の匂いが漂ってきていた。


(今日の料理当番はツァーイだった筈……。ツァーイのご飯、楽しみだなぁ……。)


 その匂いに釣られるかのように思う様に動いてくれない身体を引きずりながら階段へと向かう。そうして何とか階段へと到着をして、四段程降りた時だった。階下へと現れたツァーイの姿がイラの瞳に映った。


「イラ、おはよう!」

「うん……。おはよう、ツァーイ……。」


 普段通り元気の良いツァーイとは対照的に、イラは自分でも何だか覇気のない声だな、と意識の片隅で感じた。


「寝る前に何かしていたの? イラが最後なんて珍しいけど。」

「別に、何も……。ただ……ちょっと、寝付きが悪くって……。心配させて、ごめんね……。」


 けれどツァーイに心配をさせまいと、彼女の問いに対して深くは考えないままに笑みを浮かべながら答える。

 自分が彼女達には隠しておこうと思っていた事に関する情報を、そうとは気付かずに口にしてしまっている程度に不安定な状態だとも気付かないまま。


(なんだ、これ、ただ喋っているだけなのに、少し……ううん、凄く辛い……。)


 そんな考えが頭を過りながら、無意識の内に「ぜぇ……ぜぇ……」「はぁ……はぁ……」と言うような吐息が漏れ出ている事に気付く。けれど抑える事は出来なかった。

 それでもツァーイの言葉に返事をしていると、階段の足場を踏み外してイラの身体は宙へと放り投げられてしまった。咄嗟に階段の手すりへと手を伸ばそうとするが、どれだけ動かそうとしても右手も左手も動いてはくれなかった。

 結局はいつかの戦いのように間一髪の所でツァーイの光魔法によって助けられる形となったが、衰弱している状態の身体に落下と言う負荷がかかったせいか、イラはツァーイに受け止められる形で崩れ落ちてしまい、意識も曖昧な場所へと堕ちる事となってしまった。

 やがて駆けつけたファクトとフェアリを加えた三人によってイラは自らの身体が自室のベッドへと戻されるのを感じていたが、三人が居間へと戻ろうとした時も意識はボーっとした状態となっていて、ツァーイの「すぐに戻るから安静にしていてよ。それと鍵は開けておくけど、良いよね?」と言う言葉にコクリと頷き返すのがやっとだった。

 本当は三人に行って欲しくはなかった。身体に鞭を打ってでも、もしも今日が自分の『終わり』だとしても、一緒に連れて行って欲しかったし、それが叶わないならここに居て欲しかった。

 だけどそう伝える事は出来なかった。ツァーイに、ファクトに、フェアリに、皆に助けてもらってばかりの自分が、自分から迷惑をかけるような事を口にする事がイラには出来なかったのだ。


「やっぱり大丈夫そうじゃないね……。」

「けほっ、ごほっ……はぁ……はぁ……。ごめんね、ツァーイ……。迷惑をかけちゃって……。」

「イラが気にする必要はないよ。別に私を困らせようとして、わざと風邪を引いたって訳でもないんだし。それよりもイラの状態を詳しく調べたいから、少しの間じっとしていてね。」


 しばらくしてからツァーイだけが部屋に戻って来た。その事がとても嬉しくて、嬉しくて、堪らなかった。けれど同時に迷惑をかけてしまって申し訳ないという気持ちも湧き上がる。それでも一緒にいてくれる事が嬉しくて、心強くて、暖かった。

 その頃には多少は意識がハッキリとするようになっていたが、会話もそこそこにツァーイは何やら沢山の医療道具を取り出して診察を始めた。

 これは後日聞いたのだけれど、これらの道具は彼女の両親の遺品であり、医療に関する知識なども同様に両親の残した遺産から会得したものと言う話だった。


「ふぅ……確認出来る事はこれで全部したと思うけど、本当にただの熱みたいで良かったよ。」


 風邪。昔の記憶がないから少し新鮮な気もするけど、そうか、これが風邪。熱を発して、病に倒れ、床に伏せて……こんなに辛くて苦しいものなのか……。


「そっか……。ありがとう、ツァーイ……。でも、こんなに沢山の道具で調べる必要があったの……?」

「道具によって調べられる範囲が違うんだし、もしもの事を考えたらこれ位は、ね……。何か一つでも見落としたのが原因で取り返しのつかない事になったら怖いし……。」

「……全く、ツァーイは心配性だなぁ……。前にも約束したよ? 僕は病気で死なないって。……っ、けほっ、けほっ、はぁ、はぁ……。」


 やがて長かった診察時間が終わり、一仕事をやり遂げたような様子のツァーイに対して僕は笑みを浮かべながらお礼を告げる。だけど上手く笑えていないような気がするのは、何となく自分でも分かっていて、ツァーイが心配しているのが伝わってきた。

 かつてたった一つの凶病――《サイス》によって家族を、友達を、村の人達を、親しかった人達全員の命を奪われ、故郷さえもが事実上の滅びを迎えてしまったというツァーイにとってはどんなに小さな病でも侮る事など出来ないのだろう。

 そうと分かっていても――いや、だからこそ、イラは心配をかけまいと笑みを絶やさないようにし続けた。彼女が過去を打ち明けてくれた時にした約束の言葉をもう一度口にして、少しでも安心させようと。

 けれど果たしてその効果はあったのか、なかったのか。いや、そもそも自分はツァーイを守れているのか、力になれているのか、今もこうして彼女の手を煩わせているだけではないかとイラは思い悩む。

 そんな中でお腹の虫がなり、ツァーイがお粥を作ってくれた。


「はい、どうぞ。出来たてで熱いから、冷ましながらゆっくりと食べてね。」


 そう言って手渡されたお椀とスプーンを受け取ると、それだけで熱が手に伝わって来た。今の自分の頭から伝わって来る不快な熱ではなくて、手にしているだけで心まで癒されそうな心地良い温もりの熱だ。


「うん……。ありがとう、ツァーイ。ケホッ、ケホッ……。でもごめんね、わざわざ作り直させちゃって……。」

「だからそういう事をイラが気にする必要はないんだよ。それに私が好きでしている事なんだし。」

「……でも僕のせいで迷惑をかけてるのは本当の事だから。それに今日の仕事クエストだってファクトとフェアリに押し付ける形になっちゃったし……ゴホッ、ゴホッ……。こうしてツァーイが看病をしてくれるのは嬉しいけど、もしかしたらツァーイにも風邪を移しちゃうかもしれないし……ハァ、ハァ、ケホッ、ケホッ……。」

「それでも気にしなくて良いの。こんな状態のイラを外に連れ出す事も、一人で家に残しておく事も出来る訳ないんだから。それに私なら大丈夫だよ。……生まれてから一度も風邪や病気にかかった事なんてないんだから。」

「……うん。本当にありがとう、ツァーイ。」


 本当にツァーイの言葉の一つ一つが嬉しくて、嬉しくて、堪らない。どれだけ辛くても、どれだけ苦しくても、彼女の存在がただそこにあるというだけで、一緒にいてくれるというだけで、胸の奥底が暖かくなってくる。だからこそ早く体調を治して、今まで以上に彼女の力になりたいと思えてしまう。

 「いただきます。」と口にしながら、プルプルと震える腕でスプーンを使い、火傷をしないように「ふーっ、ふーっ」とお粥を少しだけ冷ましながら食べ進める。


「その、どうかな……。大丈夫だとは思うんだけど、病人食ってあんまり作った事がなくって……口に合うと良いんだけど。」


 食べ進める内に不安そうな表情でツァーイがそう尋ねて来た。けれどそんな心配が要らない程に、ツァーイお手製のお粥は美味しかった。

 確かに食べやすさを考慮してか、普段の料理より味付けは薄いかも知れない。だけどそれでいて味はハッキリと感じられるし、食べやすい薄味という範囲でかなりギリギリに濃い味付けとなっていて、こんな状態でも決して食べ飽きる気がしなかった。何より自分の為にとツァーイがこのお粥を作ってくれたと言う事が嬉しくて、暖かった。


「心配しなくっても、ちゃんと美味しいよ。それに凄く暖かくって――えっ、何これっ……。何で……。」


 だから安心してよと伝えたくて、言葉を綴ろうとした。けれどその途中で、突然色んな感情が胸の奥底から湧き上がって来た。

 ツァーイがこうして一緒にいてくれる事が嬉しくって、そうじゃなかった×××が悲しくて、××××××独りぼっち×××事が寂しくて、×××みたいに苦しい思いをするのが嫌で、嫌で、嫌で、大嫌い。願う事なら二度とそうはならないように、ずっとずっとツァーイと一緒にいたい。けれど、きっと、その願いは叶わなくって、彼女を傷つけた僕にその資格がある筈がなくって、だけど×××のように大切な人と別れたくはないから切なくなって、胸の奥が苦しくて、締め付けられて、いつか訪れる××××が怖くて、怖くて、仕方がない。

 自分でも分かるような、分からないような沢山の感情が同時に渦巻き続ける。まるで僕が僕じゃなくなるかのような錯覚さえ覚え、もしかしたらこの感情は別の誰かの物なのではと思えてしまう程に。

 気付けば両目から涙が零れ落ち始める。ボロボロ、ポロポロ、ボロボロ、ポロポロ……溢れ出した涙はずっとずっと零れ落ち続ける。

 自分でも訳が分からない感情の数々に押し潰されてしまいそうになる。それでも手の中にあるお椀から伝わって来るツァーイの温もり。それだけが今の僕にとっては最も強い真実であり、確かな想いだと確認させてくれる。

 零れ落ち続ける涙を他所に、お粥を食べ進めて、ツァーイに渡された苦いお薬を飲み干すと、イラは眠りへと堕ちて行った。

 【強欲のアワー】との戦いの末に意識を失っていた二日間を除けば、イラにとってその眠りは久しぶりの深い、深い、熟睡と言える程に深い眠りの深淵だった。



 それはかつて、この世界(リーネド・ムンリ)とは異なる世界において異光(いかり)円(まどか)と呼ばれていた少年の、今は本人さえ忘れさってしまった、誰の胸の中にも存在しない物語。

 彼が住んでいる住居は、一階建ての小さな一軒家。その家にある部屋は当然どの部屋も小さな小部屋ばかり。その中でも取り分け狭い一室が彼の寝床だった。

 その部屋の隅っこには、大人が乗ったらギシギシと軋んだ音を立ててすぐさまに壊れてしまうであろう使い古された小さなベッドが一つと、それ以外にあるものと言えば十数個の本棚。そしてそこに収まっている無数の書物のみ。

 また小部屋にそれだけの多くの本棚を設置しているものだから、足の踏み場は必要最低限のスペースしか用意されていなかった。

 そんな手狭な個室のベッドの上で横たわっている黒髪の少年こそが、異光円だった。


「けほっ……けほっ……。」


 その日、彼は風邪をひいていた。

 当時は、まだ小学四年生だった円が風邪で寝込んでしまっているという状況自体は誰にでも訪れる日常のワンシーンでしかないだろう。けれど現在彼を取り巻く状況は非常に過酷なものだと言えよう。

 状況その一。現在この家に在宅しているのは円だけである。また円には兄弟や親戚の類が存在せず、両親以外に血の繋がった存在は一人として知らない。

 状況その二。過去は別としても、今現在彼の近くに『異光円を友達』と認識してくれている友人は存在しない。正確に語るのであれば、二年前までは彼を友人だと思ってくれる人は割と沢山存在していた。それこそ幼稚園や小学校では毎年クラス替えをされても、常にクラスの半数とは友達になれていた程に。

 しかし二年前に円はある病を発症、それによって彼本来の人格は喪失されてしまい、怒りの衝動に突き動かされやすい――非常に短期な人格となってしまっていた。それまでの温厚な円を友人だと思っていた人達は、彼の豹変に恐れや反感を抱いてしまい、一人、また一人と、その縁を切ってしまい、今では学校の教師さえもが彼を避けたり、悪者にしようとするようになってしまっていた。

 状況その三。本来であれば彼を看病しているであろう両親は、もうこの家には帰って来ないであろう事を円は理解していた。

 こちらも正確に語るのであれば、六日前までは――円の病という問題こそ抱えてはいたが――極普通の幸せな一家だった。けれどそんな幸福な光景は、六日前に起きた交通事故によって永久に失われる事となった。

 その事故が起きる原因の要因は幾つもあった。けれど、その要因の一つに円の病が関与していた。

 円が抱えている病が引き起こす症状は人格の喪失と書き換えだけではなく、寧ろそれらは副次的なものであるとも言えた。その病には他にも幾つもの症状があったが、主たる症状は意識の喪失である。脈絡もなく不定期に脳波が乱れ、円本人の意識がプツリ、と途切れてしまうのだ。

 そうして途切れた意識は、数十秒から数分程度で回復する。意識が途切れてしまうだけなら、不定期に失神が起きるようなものでしかない。問題は意識が途切れている間でも、身体が勝手に動いてしまう事があるという点だ。

 脳波が乱れ、意識が途切れ、けれど乱れた脳波によって発せられた本人の意識とは別の命令系統が意識のない虚ろな身体を勝手に動かしてしまう。そこに円自身の意識はおろか、無意識さえも関与は出来ないし、医者に忠告をされた所で意識が途切れてしまうのだから本人には止めようがなかった。

 だから円の母親は、彼が家や学校の中にいる時間以外は常に寄り添おうとしていた。学校へは車で送り迎えをしていたし、円が外出をすると言えば家事や作業を中断してでも一緒に連れ添った。

 病によって彼の人格がどれだけいびつなものへと歪んでしまっても、母親は息子を愛し続けていたのだ。

 けれどそんな風に円を守り続けた母親は、六日前に二度と帰らぬ人となってしまった。

 その日、円と母親はいつものように外出をしていた。けれど母親の携帯電話に一本の電話がかかってきた。母親が電話の対応に追われている間、彼女の意識はどうしてもそちらへと削がれてしまい、円から目を離してしまったのだ。

 そしてそんな時に限って、不幸にも円の病が脳波の乱れを引き起こされた。それによって誤作動の命令を彼の身体に送り付けられ、円の意識は僅かな時ではあるものの、眠りや死とは異なる虚無の深淵へと封じられてしまう。

 そこから脱出する手立ては二つ。一つは脳波の乱れが落ち着くまでの時間が経過する事。もう一つは外部から強い衝撃――円の身体を強く揺さぶったり、大きな音を聞かせるなど――を与えて強引に意識を現実へと引き戻す事。けれど普段なら円の動きを止めてくれる母親の目は、今の彼から離れてしまっている。

 そうして乱れた脳波に突き動かされた円の足は、進行方向とはずれた位置にある横断歩道へと向かって行った。赤く光っている歩行者用の信号機と、横から走ってくる大型のトラックを正しく認識出来ないままに。

 当然車道用の信号は青信号で、にも関わらず子供が歩いているなどと思わなかったトラックの運転手は、円の存在に気付いて急ブレーキをかけるが、大型車の急ブレーキが間に合うは筈もない。

 その異常事態に母親が気付いたのは、トラックが急ブレーキをかける数秒前だった。

 病に突き動かされて異常な行動をとっている息子に気づいた彼女は、電話対応が途中だったにも関わらず、携帯電話や所持していたカバンを乱雑に投げ捨てて、勢いよく息子をめがけて走り出した。

 トラックが急ブレーキをかけた事でほんの僅かではあるが、勢いが削がれた事もあってか、トラックが円に衝突してしまうよりも先に、母親は円を車線の外側へと突き飛ばす事に成功した。

 けれどその代わりにとでも言わんばかりに、遅れて突撃してきたトラックが、大きなクラクションの音を鳴り響かせながら、母親に衝突した。

 母親に突き飛ばされた事と、運転手が鳴らしたクラクションの音、そのどちらか、或いは両方が共に円の意識を強制的に引き戻すに足りえる外部からの衝撃となって、円の意識は現実世界へと引き戻された。

 けれど意識が戻った彼がクラクションの音の残響に驚いて振り向くと、そこには大量の血を流し出しながら倒れている母の姿と、急ブレーキによってスピンして倒れたトラックがあった。

 それは円にとって、一生涯忘れる事の出来ない痛みとなった。

 通りかかった野次馬の誰かが救急車を呼んでくれた事で円と母親、トラックの運転手は病院へと運ばれた。けれど大量の出血と、幾つかの臓器が破損してしまった事によって母親は亡くなってしまった。

 その後は病院から父親に連絡が行き、父親が葬式の手配やら、後処理などを執り行った。

 そうして葬式が開かれたのが昨夜の出来事。葬式と言っても円も両親も、親戚と疎遠だった事もあって、参加者は円と父親、それと葬儀屋の三人だけだった。

 その葬式の最中にヘビースモーカー故に癌を患っていた父親が苦しみだして、葬式は中断。葬儀屋の人が救急車を呼んだものの、救急車が駆けつける前に父親は急死してしまい、結果として母親の葬式が、両親の葬式へと変更する事になってしまった。

 その夜、円は自分の病によって母親と父親が死んだのだと自分を強く責め続けた。眠気に襲われて、眠りへと堕ちるその瞬間まで、ずっと、ずっと、ずっと。

 そんな彼が両親を失った喪失感と、その引き金を引いたのが自分自身なのだというどうしようもない事実に押しつぶされながら、寝不足となれば風邪をひいてしまうのは必然だったとも言えよう。しかしその事に同情をする人も、憐れむ人も、愚かだと罵る人さえ、この部屋――いや、この世界には存在しない。

 風邪をひき、小さな部屋で狭いベッドに横たわる少年――異光(いかり)円(まどか)は小学四年生にしながら、病により人格喪失を発症し、両親を失い、友との絆は断ち切られ、身寄りを預かろうとする親戚もいない、天涯孤独の過酷な環境に立たされていた。

 近くの本棚の上に置かれた体温計には『39.2°』と表示されているが、彼を看病してくれる人も、お見舞いに来てくれる人もいない。

 幼いながらに衰弱しきっている彼は、この日幾度も眠りと目覚めを繰り返す事になる。


「おかーさん……おとーさん……。まってよ……いかないでくれ……。」


 微睡む意識の中で時折、夢の中で自らを看病してくれる両親を探し求めるかのように、眠っている最中の彼の手が、空を掴むかのようにベッドの外へとダラリと落ちた。

 もしかしたら夢の中では握り返してくれる両親の姿があったのかも知れない。けれど、現実世界に置いて、その手を握り返してくれる存在は、もうどこにもいなかった。

 この先、異光(いかり)円(まどか)は劣悪な環境下にも関わらず、彼なりに奮闘をする事になる。

 誰一人として信頼のおける繋がりを得る事無く、自分の身を守る為に行動をし、結果として敵を作り続け、病を克服して二度目の人格喪失を引き起こし、そして十五歳の夏に死を迎える日まで……。

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