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人格喪失者、それは記憶喪失を望んだ者  作者: 明進
第三章 強欲、それは全てを奪う暴力の化身
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記憶四十八―目覚め、それは知らない天井―

「ん……んぅ……」


 夢を見ていた気がする。けれどそれがどんな夢だったのか、良い夢だったのか、悪い夢だったのかさえも思い出せない。ただ何かの夢を見ていた気がすると言う曖昧で、おぼろげな感覚だけがあった。

 やがて何とも言えないその感覚に続いて、眠りから目覚める感覚に背を押されるかのように意識が浮上し始める。けれどそれと反するように、もっと眠っていたいという欲に囚われ始め、意識を微睡みに絡み取られそうになった。

 だけど何故だか目覚めないといけない気がして、睡眠欲と使命感の戦いの末に何とか後者が勝利を収め、その結果として瞳を開ける事に成功する。


「……ん? ……うん……? ここ、どこ……?」


 するとどういう事なのか。視界に映ったのは見知らぬ天井だった。

 え? 本当にここはどこ? どこかの宿泊部屋でもなければ、テントで野宿中と言う訳でもない様子だけれど。あれ? と言うか何で寝てたんだっけ……?


「イラ……?」


 そこまで思考を回した所で突然聞こえて来た少女の呟くような声に、意識の全てが奪われて、思わず声の聞こえた方向へと視線を向ける。

 そこにいたのは小さな椅子に座りながら、同じようにこちらへと視線を向けている蒼髪蒼目の少女――ツァーイ。

 不思議と見つめ合う形になって、ツァーイの吸い込まれそうな程に綺麗な瞳に見惚れてしまう。

 もうずっとツァーイとは一緒にいる筈なのに、時折不意にそうなってしまうと、どうしてもツァーイに対して「綺麗」とか、「可愛い」とか、そういう事を思ってしまって、けれど口にしてしまえばきっと彼女を困らせてしまうと思って、だから口にしないようにと気を付けて、そのせいで自然に言葉を発する事が出来なくなってしまう事がある。

 数秒程の僅かな時間ではあったけれど、僕がそうして硬直しているのに対して、不思議とツァーイも同じ様子だった。けれど先に動いたのはツァーイだ。

 ツァーイは椅子から立ち上がるとこちらへと近づいて来て、手が届く距離にまで詰め寄った。そのまま自分の両手で僕の頬をそれぞれ掴んで逃げられないように固定すると、自分の顔を近づけながらジーっと僕の両目を覗き込んで来た。


「ツ、ツァーイ……? どう、したの……? 顔、近いよ……?」


 こうしてずっと見つめられているのも別に嫌いな訳ではないけれど、少し気恥ずかしくなって、それに勘違いをしそうになってしまうから、何とかしようとして喉の奥から言葉を取り出した。

 けれどそれはやはりと言うか、平常心を失ったようにどもったり、変に喉が詰まったりしてしまった。


「……イラ、だよね……?」


 そんな僕に対してツァーイも何か思う事があるのか、普段の明るい様子の声ではなく、か細い声を発した。

 その声はツァーイが不安だったり、恐怖だったり、そう言った負の感情を多く抱えてしまっている時に発されるもので、その時になって僕はようやくツァーイが普段通りじゃない事に気が付いて、そう思ってしまったのと同時に、先程まで感じていた気恥ずかしさが冷めるように抜け落ちて行くのが分かった。


「……うん。」


 こちらを覗き込んで来るツァーイの瞳を真っ直ぐに見つめ返しながら、そんな事を言う。

 もう少しマシな、例えばツァーイを落ち着かせられるような頼りがいのある言葉を返せれば良いのになぁとか、思わないでもないけれど、他に思いつかなかったので仕方がないと諦めるしかなかった。


「…………イラ。」


 しばらくの間何かを確認するかのように、僕の瞳を凝視するツァーイの瞳。

 そうしてやっと何かを確認、それとも確信だろうか? とにかくホッとしたように、ツァーイが僕の名を呼ぶ。

 それに答える間もなく、頬から手が離されたと思ったら、突然身体が毛布とは異なる温もりに包まれた。

 一瞬何が起きたのか分からなかったけれど、気が付けば僕は、ツァーイに強く抱きしめられていた。


「良かった……。本当に、本当に良かった……! 私、イラに何かあったらって、もしイラが二度と目覚めなかったら、どうしようって……目を覚ましても、イラがイラじゃなかったらどうしようって……ずっと、ずっと不安で……。」


 抱きしめられている僕からはツァーイの表情は窺えない。

 けれど聞こえてくる嗚咽から、両目に大粒の涙を浮かべている彼女の姿が想像出来てしまう。


(僕が、何かした……のかな……?)


 どうしてツァーイがこんなにも泣いているのか、泣いてしまう程の不安や、悲しみを抱え込んでしまっているのかは分からないけれど、ツァーイの様子からその原因が自分にある事だけは分かった。


(そう言えば、僕は何で眠っていたんだっけ? 確かフリーダ村を見つける事が出来て、村長さんに連れられて、協会で――)


 未だに寝惚けているのか、どこかハッキリとしない意識を集中させながらイラは何があったのかを思い出そうとし始めた。

 そうしてそこまで思い出した所で、意識が今度こそ完全に覚醒を果たした。


(そうだ! 【強欲のアワー】……! 僕達は、あいつと戦って、それで……それで――)


 脳裏に過る光景の数々。

 アワーの前に血を流しながら倒れるファクトと悲痛な叫び声を上げるフェアリの姿。

 それを目の当たりにした瞬間に頭の中でぷっつんと、何かが途切れる様な感覚がして、怒りに任せるように戦いを始めた。

 けれどアワーの多種多様な魔物化と、圧倒的な力の前に苦戦を強いられて、大剣で貫かれて、死にそうになって、それから、ツァーイに逃げて欲しいと思って、なのにツァーイは足手纏いでしかない筈の僕なんかを助けてくれて、ツァーイのフードが取れて、アワーが【蒼い疫病】と呼ばれるツァーイに興味を持って、彼女の存在を欲しがって、それに怒ったファクトとフェアリと戦ったけど逆にファクトが人質にされて、ツァーイがアワーの要求を呑もうとして、それで僕は、僕は、頭の中が真っ赤になって、湧き上がる怒りの衝動を抑えられなくなって、ツァーイを――。


「僕が、ツァーイを……傷つけた……?」


 そこまで思い出した所で、無意識の内にツァーイの背へと回そうとしていた両手がダラリと力を失ったように崩れ落ちた。

 それはツァーイを傷つけてしまった自分には、彼女の背を抱きしめる資格がないと思った抵抗であり、苦悩であり、痛み。

 そうだ。怒りのままにもう一度戦って、僕はツァーイを乱暴に突き飛ばした。

 それはツァーイをアワーから少しでも引き離す為の、ツァーイの動きを阻害する為のものでもあった。きっとそう説明をすれば彼女は笑って、或いは少しだけ怒りながらも最終的には納得をしてくれるだろう。

 けれど本当にそうなのだろうか? それだけなのだろうか? あの時感じた憤怒の如き強い怒りはそれだけでは、なかった筈だ。

 アワーの要求を呑んで、僕達の為に投降しようとしたツァーイに対して、僕は確かに怒っていた。

 どうして逃げないんだ! 僕を見殺しにして構わないのに。ファクトもフェアリもきっと自分達で逃げてくれるから。だから行ったら駄目だ! 行くなよ! 行くな!!

 あの時の自分は、そういった強い怒りに囚われていた。そしてそれを制する事も、自らの心境を顧みようとも、冷静になろうとさえもしなかった。

 ツァーイを突き飛ばす事に何の躊躇いも感じなかったし、突き飛ばした後でさえもツァーイに対する怒りの感情は一向に収まってくれなかった。

 だから戦いが終わった後に、アワーを殺した後になっても、僕はツァーイの肩を掴んで、押し倒して、怒りの丈を、そのままぶつけてしまった。

 【蒼い疫病】だと人々から蔑まれて、傷つけられてきたツァーイにとって、言葉こそが最も効果的で、残酷で、傷つけやすい刃だと知っている筈なのに。

 それに今回は、戦闘中に怒りの矛先が敵である【強欲のアワー】に向けられはした。仲間であるファクトとフェアリを傷つけ、ツァーイをも奪おうとする敵を生かしてはおけない。そうした憎しみにも近い、怒りの感情に、憤怒の衝動に駆られて。

 ……けれど、もし、もしも、次にまた同じような強い怒りに囚われてしまったら、その時は?

 今回のように敵対すべき存在に対して怒りの多くを向ける事が出来るだろうか?

 万が一にでもツァーイに対して剣を向けて、彼女を物理的に傷つけようとしないと、殺してしまう事がないと断言が出来るだろうか?

 ……無理だ。絶対にしない。そう言い切る事が出来ない。あの怒りに囚われてから、自分の感情の枷が壊れてしまったかのように、怒りの衝動を押し殺す事はおろか、黙らせる事も、出来なかった。しようとすらしなかかった。

 もしも再び怒りに囚われる事があったら、きっと僕はその時もツァーイを傷つけてしまう。普段の僕が感じているツァーイの恩に報いたい、ツァーイの事を守りたいと言う大切な想いさえも憤怒に塗れて、見えなくなってしまう。

 それにあの怒り――憤怒の衝動は何だったんだろうか?

 あの衝動に逆らえなくなって、衝動的に戦うようになって、それからの自分はまるで自分じゃないような力を発揮していた。

 あれは、あの力は、駄目だ。使ってはいけない力。頼ってはいけない感覚。使い続ければ、戻れなくなってしまうかも知れない。僕(・)が(・)僕(・)じ(・)ゃ(・)な(・)く(・)な(・)っ(・)て(・)し(・)ま(・)う(・)ような気さえしてしまう。

 何よりもツァーイを傷つけてしまった事がその証拠だ。

 ツァーイを傷つけたくなんてないのに。

 ツァーイの信用を裏切るような真似をしたくはないのに。

 ツァーイから受けた恩を返さないといけないのに。

 なのに、僕は、僕は、僕は――



 二(・)日(・)ぶ(・)り(・)にイラが目を覚ました。

 【強欲のアワー】との戦闘を終えてからの、この二日間は私にとっては生きた心地がしない、永遠に生き地獄を彷徨うかのような時間だった。

 様々な不安に駆られて、胸の奥がズキズキと傷んだり、ギュッと握り潰されそうな感覚が常に纏わり付いて離れてくれなかった。

 そうしてようやくイラが目覚めてくれたのに、それがとても嬉しい事で、不安も幾らかは空が晴れるように消え行くような気分になったのに、それでも私の胸の中には以前として僅かな不安が消えてくれてない。その原因は色々とある。

 例えば【強欲のアワー】との戦闘中に豹変したイラの様子。瞳を紅く濁らせて、言葉や動作が普段とは比べるまでもなく乱暴なものになっていて、私の言葉も全然届いていない様子だった。

 例えばイラの中に入って行った黒い球体。その正体も、それがイラに与え得る危害についても、全くの未知で分からない。

 けれどあれが良い物である筈がない。何故なら【強欲のアワー】から感じた存在そのものが悪だと思える力を感じさせていたから。

 それは紅目の状態になったイラも同じなのだけれど、とにかく、あの黒い球体のせいでイラがこのまま寝たっきりになったらどうしようとか、イラが目覚めた今でさえもイラが私の知るイラではなかったら、イラが突然死んでしまったら、等と嫌な考えが幾つも浮かんでしまう。

 他にも不安の種は幾つかあるけれど、そのどれもがイラに関する事だった。私にとってイラは大切な仲間で、絶対に失いたくない存在で、けれど、それは、一人に戻りたくないからと言う私の我が儘で。だけどそう分かっていても、私はイラを失いたくない。今まで通り傍にいて欲しいと思っている。

 だから私はイラが目覚めるなり、彼の瞳の色が青に戻っているか、それとも紅のままなのかを確認した。目覚めたイラの瞳は本来の色である青に戻っていて、きょとんとした様子の彼は紛れもなく、私の知っている普段通りのイラで。

 不安は完全に消え去ってくれなかったけれど、私は私の知っているイラが戻って来てくれたってだけで、凄く嬉しくて、もう二度と手放さない、手放すような真似はしない、だからイラがここにいるってもっと教えて、感じさせて、そうやって溢れ出した感情を上手く整理する事が出来ずに思わず抱きしめて、子供のように泣きじゃくってしまった。

 けれど途中で何か違和感を感じてしまって、それがすぐには分からなかったけれど、ポツリと呟かれた「僕が、ツァーイを……傷つけた……?」と言うイラの言葉で私は少しだけ抱きしめる力を緩めて、少しだけ離れて彼の表情や様子を窺った。

 そうする事で違和感の正体には、すぐに気付けた。前にファングの高原で同じようにイラに抱きついてしまった時のように、イラが私の背を抱きしめ返してくれなかったからだ。

 よくよく見てみると、イラの両腕は糸の切れた操り人形のようにダラリと力を失っていた。それに先程までは普段通りだったイラの表情が、まるでこの世の終わりを告げられたかのように青ざめているのだ。


「イラ……? ねぇ、イラってば! しっかりしてよ!」


 私は必死に呼びかけた。

 けれどイラは私の声が聞こえているのか、聞こえていなのか、それさえも分からないままに青ざめた表情で「僕がツァーイを傷つけたんだ……。」「あんな事、するつもりじゃなかったのに……。」などと何度も自分を責めるような言葉をボソボソと呟き続けている。

 もしかして紅目の時に私を突き飛ばした事や、押し倒した時の事を言っているのだろうか?


「……私なら大丈夫だよ。」


 私はイラの背へと回していた両手を引き戻し、彼の両手を包み込むように握りしめる。


「確かに少しだけ驚いたし、少しだけ怖かったよ。……でもそれは、傷つけられたからじゃないよ。イラが、私の知ってるイラじゃなくなった気がして、私の知っているイラが戻って来なかったらどうしようって、それだけが怖かった。」


 私の言葉に反応するかのようにイラの自分を責める呟き声が少しだけ途切れる。

 けれど青ざめた表情は、以前としてそのままで、私は言葉を続ける。


「だからイラがこうして戻って来てくれて、無事に目を覚ましてくれて、私ね、凄くホッとしているの。……不安が全部なくなった訳じゃないけれど、それでもイラが傍にいてくれれば、私は大丈夫だから。」

「だけど……だけど、僕は、ツァーイを――」

「――それにね、私が今こうして生きているのはイラが頑張ってくれたからだよ。イラのお陰で私も、フェアリも、ファクトも、皆無事だよ。だから、自分を責めないで。」

「でも――」


 今にも零れ落ちそうな程の涙を両目に浮かべながら、尚も自分を責めようとするイラ。

 確かに私の言葉を聞こうともせずに一人で暴走した事や、無理、無茶をして二日間も眠り続けていた事に関しては少しだけお説教もする必要はあるかなとも思ってはいる。けれど、それは今じゃなくても良い。

 今する必要があるのは、イラがこれ以上自分を責めないようにする事。その為にも今はお説教の前に、イラを安心させてあげなくちゃ。


「だけども、でもも、ないよ。私が良いって言ってるんだから、気にしないでよ。……それでも気にするって言うのなら、まだ私と……私達と一緒にいて欲しいな。……それじゃあ駄目かな?」


 そこまで言った所で、とうとうイラの両目から涙がポロポロと零れ落ち始めた。

 最初は頬をゆっくりと伝って掛布団(かけぶとん)の上に流れるだけのそれが、次第に勢いを増して行き、すぐにワンワンと号泣へと変わって行った。

 今までに見た事のなかったイラの泣き顔に、胸の奥がキュッとするような切ない痛みを感じる。けれどいつも泣き顔をイラに見せないようにと、(無意識のうちにとは言え)抱きしめて誤魔化している私が、彼の泣き顔をいつまでも見続けているのは悪い気がして、気が付いた時には再びイラをギュッと抱きしめてしまっていた。

 いつまでも泣き続けるイラの背を優し目にさすりながら、「私は大丈夫だよ。」「守ってくれて、ありがとう。」などと少しでもイラを安心させられそうな言葉を口にする。

 所詮は気休めでしかないのかも知れないけれど、言葉にして伝えなければ、今この瞬間にもイラが消えてしまうような気がして。

 果たして支えられているのは、助けられているのは私とイラのどちらなのか。

 イラの助けになりたいと言う気持ちは勿論あるけれど、それでも私の取っている行動がイラの支えになっているのかは分からない。それ所かこうする事で私自身が救われている気がして、私は結局の所、イラを口実にして自分の為に動いているのではないかと思ってしまう。

 だけど私がそうしてイラに救われているのと同じように、私にもイラを助けられているのなら良いなと思う。きっとただの自己満足なんだろうけど、それでもそう思っているのは私の本心だから。


「でも、僕は、ツァーイを……またツァーイを傷つけちゃうかも。次はもっと酷い事をするかも知れない……。」

「それでも良いよ。私にとって一番辛いのは傷つく事じゃなくって、きみを失う事なんだから。」

「だけどっ……でもっ……っ……」

「またそればっかり。……だから私は、イラと一緒にいられればそれで良いんだって。イラが自分を責めて、私達から離れようとする方が私は寂しいよ……。それに忘れてるの? 私はイラより強いんだよ。だからまた似た様な事があっても、簡単に傷つけられてあげないんだから。」


 本当の事を言えば、もしもイラが紅目の状態になってしまって、イラが私を傷つけようとした時に私が抵抗出来るか、どうかなんて分からない。

 確かに私がその気になれば、少なくとも普段のイラであれば簡単に傷つけられる事なんて出来ないと思う。その程度には私とイラの間には冒険者情報(ステータス)――もとい、レベルの差が大きく開いている。

 だけどあの紅目のイラは、どうか分からない。紅目のイラは、どういう訳か私と互角以上に戦っていた【強欲のアワー】を圧倒する程の力を振るっていた。

 もし再びイラの瞳が紅く濁ってしまった時に、私はイラを止める事が出来るのだろうか?

 イラが今みたいに自分を責めたりするような事にならないと、言い切る事が出来るだろうか?

 絶対にそう出来ると言う確証など、どこにもない。冒険者情報(ステータス)に記載されている数値は、あくまでも指標に過ぎない。仮に私が紅目のイラにあらゆる点で勝っていたとしても、私がイラに手心を加えれば何も出来ずに一方的な攻撃を受ける事さえあり得るのだから。

 それにあの時、紅目のイラから感じた【強欲のアワー】と同じ力――『世界に存在してはいけない』或いは『存在そのものが悪である』としか言い表せない黒い力。それが気のせいなどではなかったとしたら?

 私の知っているイラは危険な存在では決してない。けれどイラは記憶喪失者だ。もしも記憶を失う以前のイラが本当に危険な存在だったとしたら?

 この先イラが記憶を取り戻す事があったとして、その時にイラが私に対して今までと同じ振る舞いをしてくれるとは限らないし、逆に記憶を失っていた間――私と出会ってからの記憶を全て失ってしまう可能性も無いとは言えない。

 どちらにしてもこの先何があろうと、私はきっと……ううん、絶対にイラに危害を加えるような事は出来ない。少なくともイラがどれだけ危険な存在だったとしても、【強欲のアワー】にそうしたように、イラを殺すつもりで戦うなんて事は絶対に出来ない。

 それでも私はイラを安心させる為に背中をギュッと抱きしめながら、言葉を口にし続ける。

 今この瞬間だけの気休めにしかならないかも知れないし、私が何を言ったとしても無意味なのかも知れない。

 だけど何もしないなんて事は出来なくて、イラが涙を流すのを止めるまでずっと、そうしようと――


「おはよう、ツァーイ! そろそろ、朝食の準、備……を――」


 ――していた所に、突然部屋に一つしかない扉がバンッ! と勢いよく開きながら、フェアリが部屋に入って来た。



 どうして、こんな事になったのか。ふと私はそんな事を思考する。

 元はと言えば、私はさっきまで一階の居間でファクトと雑談をしていたのだ。話の内容は主に眠ったままのイラさんはいつ起きるのかなとか、今日はどの部屋を掃除しようとか、何か買い足す必要のある物はないかなとか。そういう取り留めのないものばかりだ。

 本当は恋人兼婚約者であるファクトとは、もう少しイチャイチャしたいな。とか思わなくもないけれど、イラさんの状態が状態なので、流石にそんな気にはなれないでいる。

 それはファクトも同じようで、何だかそんな雰囲気を醸し出している。

 そしてイラさんの事を私達以上に心配しているツァーイが、イラさんの部屋に入り浸っている事を知っていたし、多分今もそうしているんだろうなと言う事を察してはいた。

 けれどツァーイは昨日までも家の掃除やら、何やらを私達と一緒にしていたし、当番制の様々な仕事はきっちりとこなしていた。

 だから今日の朝食当番である彼女が朝食の時間を過ぎても現れなかったので、心配になった私はツァーイを探して、まずはイラさんの部屋へと向かった訳なのだけど……。


「……あっ、あっはっは……。ごめんね、何か邪魔しちゃったみたいで。」


 扉を開けると同時に目の前に飛び込んで来た光景に数秒程の硬直時間を挟んでから、私は苦笑いをしながら扉をそっと閉めた。

 だって、ねぇ? ファクトと婚約をしている恋人だとツァーイ達に話している私だって、人目の付く所でファクトとイチャイチャしようとは思わないんだよ。状況次第にもよるとは思うけど。

 だから私達にそういう話をしていないツァーイとイラさんが、あんな風に抱擁をしている所を見てしまったら、そりゃあ私だって気まずくもなるよ。うん。

 でも、そっか、前々からそんな気はしていたし、旅の途中でツァーイに何度も否定されたけれど、やっぱりツァーイとイラさんは恋人同士なんだね。

 それじゃあ私は今もファクトがいるだろう居間にまで戻ろうかな。別にね、私だって何が何でも今すぐに朝食を食べたかったって訳じゃないし。そりゃあちょっとした空腹状態ではあるけれど、ただツァーイが時間を過ぎても現れなかったから心配になっただけだしね?

 それにイラさんはずっと眠っていて、ツァーイはその間ずっと心配をし続けていて、元を正せばこうなった原因は【強欲のアワー】との戦いで力になれなかった私やファクトに非はある訳だし。

 うん。今日ばかりは二人にはゆっくりとして貰っても罰は当たらないと思う。と言うかいっその事、私が代わりに朝食を作っても良いかな。ツァーイはその辺りを平等にしようとしているけれど、一回位は私が肩代わりしても問題ないよね。どうしてもって食い下がれたら、その内当番の日を一日だけ変わって貰えば納得してくれると思うし。

 あ……でもイラさんは二日ぶりに起きた訳だし、折角ならツァーイの手料理が食べたいんじゃないかな? 恋人から手料理を振る舞って貰えたら誰だって嬉しいし、そうでなくてもツァーイの料理は美味しい。

 それに私だと妖精人(エルフ)の血が混ざっているせいか野菜を使った料理ばかりになるから眠り続けていたイラさんには物足りないかも知れないし……。少なくとも私が作る場合は、イラさんの分だけでもファクトに肉料理を追加で頼まないといけないかも。

 そこまで思考と想像が進んだ所で、動揺のあまり混乱をしていた私は、ようやくある事実に気付いた。

 そしてそれを確かめる為に、つい、考えるよりも先に手が動いてしまって、もう一度扉をバンッ! と勢いよく開いて部屋の中を確認した。

 そこにいたのは頬を中心に明らかに顔を赤らめているツァーイと、上半身だけを起こして、どこか落ち込んでいるように、それでいてツァーイと私に対して交互にキョロキョロと視線を泳がせているイラさんがいた。

 先程とは違って二人は抱擁をしていなかったが、大事なのはそこではない。


「イラさんが起きてるーーー!?」


 思わず叫んでしまった私に対して、イラさんとツァーイは少しだけ身体をビクッ! と揺らし、叫び声を聞いたファクトが「朝から騒々しいな……。」と、すぐに現れた。

 その間にツァーイは「わ、私、朝食の準備をしてくるねっ……!」と部屋から逃げるように出て行ってしまったのを見て、私は少し……ううん、かなり申し訳ない事をしてしまったのだと思い詰める事となった。

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