記憶四十六―決着、それは一難去ってまた一難―
私達の武器をイラの下へと届ける為に、フェアリの風魔法で三つの武器を天空へと放った後に私達はもう一つの問題をどうするか話し合った。
それはイラの魔力回廊が全力解放へと変化していた事もあり、万が一にもイラがアワーとの戦闘で魔力を使い果たした際に、どうやって落下してくるイラを救出するのか、その方法についてだ。
正直に言うと、私達の集団内で唯一風属性の魔法を操れるフェアリが魔力を使い果たしていたので、どうすれば良いのか見当もつかないかと思っていたのだけれど、そんな不安を吹き飛ばすかのように、この問題に関しては簡単に解決する事が出来た。
それと言うのも、フェアリが言うには私の光魔法でそれは可能だと言う事だった。曰く――
「光魔法には照らす、癒す、掻き消す等の他にも重減と言う作用もあります。」
「重減……?」
「はい。一時的に対象の質量、或いは重力に干渉して、重さや速さを軽減する事が出来るんです。その力を利用して落下してきたイラさんに魔法を放てば、重力によるイラさんの落下速度を軽減させて無事に助ける事が出来る筈です。」
との事だった。その後は即興ではあったけれど、フェアリの指示に従いながら重力に干渉をする魔法の練習を行った。
光属性の魔法にそういった作用がある事は知らなかった上に、指示や助言をしてくれるフェアリは魔力が尽きているので、実際にどういう魔法なのかは見る事も出来ないままのスタートで不安がなかった訳ではなかった。
現に初めは魔法の想像をするのも難しいと思っていたけれど、次第に空から地へと落下して死んでしまうイラの様子が頭をチラついて、それだけは絶対に嫌だ! 何が何でも私がイラを助けるんだ! そんな風に想い続けていたら、重力に干渉する魔法はいつの間にか完成していた。魔法は想像が大切だという位だから、きっとイラが助かる想像を強く思い描けた事が大きいのだと思う。
それからはずっと空を凝視していた。地上からではイラの様子は殆ど見えなくなっていたけれど、時折空が少しだけ光ったり、何かが動いているような気がして、まだイラは戦っているのだと言う事だけは分かった。
イラは勝てるだろうか。
勝ったとして無事なのだろうか。
もしかしてこのままお別れになってしまうのではないだろうか。
もう言葉を交わす事も、彼の口から私の名前を聞く事もないのだろうか。
その他にも様々な不安が胸の中を駆け巡り続け、とてもじゃないが生きた心地がしないかった。
イラの事を信じていない訳ではないけど、【強欲のアワー】がこれまでにない強敵だと言う事実と、今のイラは様子がおかしかったから余計に不安が強くなっていく。
イラの瞳の色が紅へと変わってからは、その瞳にも、彼の気配にも、彼の態度や口調にも、様々な部分が自分の知っているイラとは違っていて、それがアワーと同じこの世に存在してはならないような存在なのではないかと感じてしまっていて、イラに対してそんな事を思ってしまった自分が信じられなくって――。
不安が治まらないままに、やがて私の瞳は空中から落下してくるイラの姿を見つけた。
けれどイラは眠る時のように背中側を地に向けた状態で降って来たので、私の立ち位置からでは、イラの瞳が紅いままなのか、いつもの青に戻っているのかは確認のしようもなかった。
それでも目に見える限りで分かったのは、イラの手に握られている武器がフェアリの白銀の弓だけと言う事。私とファクトの剣や、イラ自身の武器である二本の金の剣や銀の矢の姿は見えなかった。
また背負っている矢筒も蓋が外されていて、その中身も空っぽになっているようだ。それと先のような致命傷こそ見受けられなかったが、傷ついている衣服や皮膚からは、イラがかなりの疲弊をしている事が感じ取れた。
早く言葉を交わしてイラの無事を確かめて安心したい。
瞳の色や雰囲気が普段のものに戻っているかを確かめて安心したい。
イラの口から「ツァーイ」って名前を呼んで欲しい。手を握って安心させて欲しい。
イラの姿が目に見えた瞬間、少しずつ、けれど確実に私の中で肥大化していた不安から逃れるように様々な欲求に襲われた。
だけど最優先すべき事は、イラの救出だ。それが叶わなければ、イラが死んでしまうのだから。
私はこの為に習得した魔法――ライティールを発動させて、イラの落下速度を相殺しよう試みた。
結果としてライティールは何事もなく発動に成功して、イラを助け出す事に成功した。
「イラ! 大丈夫!?」
私の立っている場所から少しだけ離れた位置に難なく降り立ったイラに対して、私は考えるよりも先に呼びかけていた。
それに対してイラは、反射的にこちらを振り返った。無事な様子のイラに私は一瞬の安堵を覚えるも、イラが瞳の色が紅いままになっている事に気が付き、再び不安の感情に駆られていった。
イラが生きて戻って来たと言う事は、恐らくアワーとの戦いが終わった事を意味する筈だ。それなのにどうしていつものイラに戻っていないの? もしかしてアワーは生きていて、今も上空に浮いているのだろうか? 或いは戦いの決着に関わらず、イラはずっとこのままなのだろうか。それとも――
様々な不安と疑問が瞬間的に次から次へと沸き上がり、けれど何一つとして答えは出てこない。
「イ――」
それでもイラが戻って来てくれた事が何よりも嬉しくて、だけどやっぱり強い不安に襲われ続けていて、どうすれば良いのかが分からないままに、やはり頭で考えるよりも先に、気が付けば心に急かされてイラに呼びかけようとした。
だけどその言葉が紡がれるよりも先に、前触れもなくイラの更に後方で強い衝撃と共に、ズドーン! と轟音が鳴り響いた。
その衝撃によって私は言葉を失いながらそちらへと視線を向けた。私だけじゃなく、イラも。近くにいたファクトと、ファクトに寄りかかるように支えられているフェアリさえもがそちらへと意識を奪われていた。
視線の先の光景は発生した衝撃波によって木々に咲いていた木の葉や、地に落ちていたであろう落ち葉、周辺の砂や土、小石などのあらゆるものを上空に舞い上がり、それと同時にそれぞれが重力に従って落下を始めていた。
やがてそれらが少しずつ落ち着き始めて視界の先にある存在が目視出来るようになり、それを確認した私は慌ててイラの傍に駆けつけようと走りだした。
私の背後ではファクトがフェアリを庇うかのようにいつでも魔法を放てるように準備をしているようだ。
「っ……【強欲のアワー】!? まさか、まだ生き、て……?」
それは私達の敵である【強欲のアワー】だった。
けれどイラを庇う様に彼の数歩前に立った所で、それが少し違う事に気が付いた。
遥か上空からイラと同じように落下して来たアワーの肉体は全身が凍り付いていて、とても動けそうにはなかったのだ。
それ所か落下の衝撃で肉体の一部が、纏わり付いている氷ごと破壊されて飛び散り、そこから流れ出した鮮血が周囲に飛び散っていた。
「死んで……いるのかな……?」
その様子を見てポツリと私は呟いたが、先程までの戦闘で恐ろしい程に強かったアワーの力を思い返すと、もしかしてこの状態からでも立ち上がって襲いかかって来るのではないかと言う嫌な想像をしてしまう。
手元に純白の剣があれば念入りに止めを刺そうとしたけれど、イラの元へと届けた筈の純白の剣は彼の手元にはなく行方不明になっている。
加えてアンチマジックのスキルを所有するアワーには、私の魔法が通用しない事だろう。いや、全身が凍っていると言う事は、イラの氷属性の魔法が通用した事のようにも思えるので、実は何かしらの弱点があるのだろうか? けれど私の魔法では、攻撃をしても氷を溶かしてしまうので下手に試さない方が良いかな。
どちらにしても万が一アワーが動き出すような事があったら、魔法で目隠しなり、注意を引き付けるなりして逃げ出すべきだろう。
イラが受け身をとれる様子もないままに落下をしてきた事を考えると、フェアリだけではなくイラも既に魔力を使い果たしている事になる。例え魔法を使わないにしても、魔力をここまで消耗してしまっているのなら、身体の不調は簡単に起きてしまう。
加えてフェアリの白銀の弓を除いた私達の武器は全て行方不明になってしまっているので、私とファクトで弱っているアワーを倒し切ると言うのも厳しいだろう。一応四次元ポーチに予備の銅の剣は数本貯め込んでいるけれど、並の魔物ならともかく、手負いとは言えあれ程の力を持つ存在を相手に銅の剣では心許ない。
せめてアンチマジックなんていう、厄介なスキルが存在しなければ何とか出来たかも知れないけれど。
だけどそんな私の不安とは裏腹に、この件に関しての不安は簡単に解消される事となった。
様々な不安や憶測、有事の作戦を考えていた私の目の前で突如として凍り付いたアワーの肉体がある箇所は砕け、またある個所は破裂し、別の箇所は吹き飛んだ。
他にも様々な現象を引き起こしながら、アワーだったものは次々と破壊されていったのだ。
やがてそれらの残骸が、まるで闇に溶けて消え行くように消えて行った。
「なに……これ……。」
私は何が起きたのか分からずに、呆けたような声で呟いた。
訳が分からない。
確かにアワーは敵だったし、私達はアワーを殺すつもりで戦った。
仕事だったからと言うのもあるけれど、それ以上に仲間を死なせたくなくて、自分が死にたくなくて、もしかしたら私達にとっての安住の地となるかも知れないフリーダ村を守りたくて。
だから人を殺す事に抵抗もあったけど、人の遺体を再び目の当たりにする事にも抵抗があったけれど、それでもアワーを殺すつもりで戦った。最後の最後に全てをイラに押し付けてしまった事が反省点ではあるし、他にももっと安全に事を進める事も出来たとは思っている。けれどこの仕事を(ファクトに巻き込まれる形になったとは言え)受けた事自体は後悔していない。
けれどアワーが同族である魔人を絶滅寸前にまで追い込んだ許される筈の無い悪人だろうと、どれだけ罪深き罪人であろうと、あの『この力は世界に存在してはいけない。存在そのものが悪である。』と言うような嫌な力の持ち主だったとしても、人が死んだらそこには肉体が残る筈だ。
かつて故郷にいた両親や友達、村の人達が《サイス》と言う凶病に殺されてしまい、皆のお墓を作って彼ら彼女らの遺体を葬った経験のある私は、その事を良く知っている。
だからこそ、分からない。死人の肉体が消滅するなんて、思ってもいなかった。
だって、
これじゃあ、
まるで、まるで……魔物みたいじゃない……。
幾つか存在している様々な種族から構成される人族や動物等の他の生命体とは異なり、魔物だけは死に際に自らの遺体を残さない。
魔物と呼ばれる存在は、ただ一つの例外となく、死ぬと肉体は黒い靄となって消滅し、代わりにランダムなのか、何かしらのルールに則っているのかは不明だが、ともかく魔物の種族毎に定められた討伐報酬と呼ばれる物を数種類の中から一つだけ残していく。
魔物の消滅に関しては謎が多く、様々な所説や推論こそあれど、未だに解明はされていない。
そこまで考えた所で私はハッ、とした。
けれどそれを代弁するかのように、背後からフェアリの声が聞こえて来た。どうやらファクトとフェアリも、いつの間にかすぐ傍まで近づいて来てくれていた。
「ねぇ、ファクト……魔人って死ぬと、こんな風に消滅するの……? 魔物みたいに……。もしそうだったら……いつかは、ファクトも――」
「……いや、俺の知る限りでは、そんな事は無い筈だ。確かに魔人のルーツには魔物が関わっていると言う伝承がある。……それでも魔人は人族に近い存在だ。少なくとも俺の故郷でアワーに殺された人達の遺体は俺がこの手で葬ったんだからな……。だから、遺体が消滅するなんて事は無い筈だ。」
「そう、だよね……。」
魔物化を使って人でありながら魔物の力を操る種族、魔人。その魔人であるのなら、もしかして魔物と同じように消滅するのではないかと思ってしまった。
けれどファクトに言わせれば、どうやらそんな事はないらしい。
では何故アワーの遺体は消滅してしまったのだろうか? 魔物と違って討伐報酬を落とした様子もない――そう思ってアワーの肉体が先程まであった所を凝視したら、代わりにある物が出現していた事に気が付いた。
「っ……!? これは、一体……」
それは黒い球体だった。
けれどそれがただの球体だとは思えなかった。
何故なら、その球体から感じてしまったのだ。アワーから、そしてイラからも感じられた『世界に存在してはいけない力』『存在そのものが悪である力』そうとしか言い表せない程に、異様で、異質で、異邦で、異形でありながらも、どこか神々しくさえ感じられるドス黒い力。それがあの球体からも強く感じられた。
その力を感じると同時に、私は直感した。あの球体を破壊しなくてはいけないと。
まるで使命感に駆られたように私は行動を起こした。純白の剣が手元にあればそれを突き刺すように走り出した事だろう。けれど私の手元に純白の剣は存在していない。
だから魔法に頼る事にした。アワーとの戦いの最中で使用したホーリーヒールと、ライティールを習得する為に魔力を随分と消費してしまっていたけれど、魔力の総量は全体の二割程は残っていた。
普通の攻撃魔法を使った程度では、イラやフェアリのように魔力を枯渇ギリギリまで消費してしまうような事も無い。
「燃やし尽くして! バーニングボール!」
反射的に発動させた魔法によって私の目の前にフレイムボールよりも一回り大きい、炎で出来た球体が出現し、それが黒い球体へと向かって勢いよく飛んで行った。
すぐさまに二つの球体がぶつかり合って、爆炎が発生した。これであの黒い球体を破壊する事が出来た――と思ったが、想像もしていない事が起きた。
爆炎が晴れるよりも先に黒い球体が一人でに動いて来たのだ。まるで行き先が予め定められていたかのように、俊敏に。
「ツァーイ!? 一体どうした?」
背後から黒い球体の存在に気付いていなかったのか、私が魔法を放った事に困惑しているファクトの声が聞こえた。
けれど私は返事をする余裕がなかった。黒い球体が進んでいる方向に何があるのかに気付いて、それ所じゃなくなってしまったのだ。
イラだ。黒い球体の先には、未だに紅い瞳のままになっているイラがいる。
「イラ!」
「……っ、イラ!」
「イラさん!」
私は彼の名を叫びながら全速力で走り出した。少し遅れて状況を把握したファクトとフェアリも、似たような行動を取ったようだ。
けれどイラは私達の声には気付いているのか、気付いていないのか、視線を私の方へと向けただけで動こうとはしない。
思えばイラが地上に帰って来てから、何だか反応がおかしい気がする。名前を呼んで一度はこちらに振りむいてくれたけれど、まだ言葉を交わせていない所か、イラは歩こうとも、声を発そうともしないでいた。
全速力で駆けた事が幸いしたのか、黒い球体がイラに接触をする前に、私は自分の右手をイラの左手に向かって伸ばし、そのまま自分の方に抱き寄せた。
これで黒い球体はそのままイラがいた場所を進んで行き、そのままどこかへと行って――とは、ならなかった。
私がイラを引き寄せたと同時に、黒い球体がイラを目がけて進行方向を曲げて来たのだ。イラを抱き寄せる格好になっている私は、それ以上の動作をする事が出来ないままに黒い球体がイラの背中へとぶつかった。
「っ……ああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ……!」
その途端に黒い球体は、まるで吸い込まれるかのようにイラの体内へと姿を消した。代わりにイラが突然苦しんでいるかのような、悲鳴を上げ始めた。
「イラ! しっかりしてよ、イラっ……!」
「……くそっ! 何だ、今の黒い球体は!?」
「分からない……。魔力は感じられなかったから、魔法ではない筈なんだけど……でも、だとしたら、あんな現象は見た事も、聞いた事も……。」
苦しみだしたイラの両肩に両手を添えて、軽く揺すりながら正気を促す私。
見知らぬ事態に苛立つファクトと、戸惑うフェアリ。
三人が三人とも突如として起きた出来事に困惑をしながらも、叫び声を上げながら苦しんでいるイラの心配をする。
やがて数十秒か、数分か、或いは十数分か、時間の感覚が麻痺したかのように判別も付かなかったけれど、イラは突然苦しむのを止めるとグッタリとしたように、紅いままになりながらも、どこか虚ろな瞳を私の方へと向けた。
「イラ! ねぇ、大丈夫なの……?」
まるで空虚を見定めるかのような様子のイラに、より一層の不安と心配の感情に駆られ、私は彼の名を呼び続けた。
「イラ! イラって――」
けれどイラは言葉を発するよりも先に、行動を起こした。私は何が起きたのかすぐには理解出来ないでいた。
気が付いたら私は背後に立っていた大きな木に背中を支えられるような姿勢になっていて、そんな私の両肩を両手で強い力で掴んでいるイラが怒ったような険しい表情で覗き込んでいる。
要するにイラに押し倒され、たまたま背後に木があった為に所謂『壁ドン』の様な格好になってしまっていたのだ。
「イ、イラ……? いきなりどうしたの? 顔が近いんだけど……」
どうしてこんな事をしたのだとか、少し痛いから手の力を緩めて欲しいとか、言いたい事は色々あったけれど、それよりも不意にイラの顔が凄く近い場所にある事が心臓に悪かった。
具体的な距離感を言うのなら、私とイラのどちらかがもうほんの少しだけでも近づこうとしたら鼻と鼻が触れ合ってしまう程度には近い。
突然の状況に私は困惑するしかなくって、頬がほんのりと熱を持ち始めて、心臓の鼓動が徐々に早まって乱れていくのが分かった。
思わず旅の途中でフェアリから(半ば押し付けられるかのように)借して貰い、読んだ恋愛小説のワンシーンが脳裏に浮かんだ。
それはこの世界と似た様な世界観の物語で、主人公であるお姫様に対して、想い人である男性の剣士が強引に迫るシーンだった。
そう思った瞬間に頬の熱が更に熱くなり、胸の鼓動も早まった気がした。そしてそれを自覚すると共に、頬の熱と胸の鼓動が更にもう一段階上昇した。
だって、そう思ってしまったと言う事は、まるで……まるで私が物語のお姫様みたいに、イラの事を憎からずと言うか……好いていると言うか……直接的な言葉で言うならば、私がイラに恋をしているみたいだ。
確かに私はイラの事を大切だと思っているし、仲間としては大好きだし、失いたくないと思っているし、出来る事ならずっと一緒にいたいとも思っているし、一緒にいてくれている事にも感謝はしている。
けれど私がイラに恋をしているかと問われ、それに対して正直に答えるのであれば私の答えは「分からない」だ。
恋人同士で集団を組んでいたファクトとフェアリに出会ってから、かれこれずっと考えているのだけれど、二人と違って恋人ではない私とイラの関係は一体何なのだろうか。
恋人でもなければ、誰かに決められた婚約者でもなく、(イラに直接聞ける訳もないから確認はしていないけれど)どちらかが片思いをしている訳でもなければ、形だけの愛人でもないし、幼馴染や同郷の者と言う訳でもない。
それ所かイラが私に「可愛い」とか「綺麗」だとか言ってくれた事もなければ、私がイラに「カッコイイ」とか「素敵」だと言った覚えもない。要するに口説いたり、口説かれるような事が何一つとしてなかった。
なのに異性同士二人だけで集団を組んでいて、出会ってからの時間も数えられる程度でしかないのに、互いが互いにまるで両依存をするかのように必要としている。
かけがえのない仲間ではあるし、名目上はリベルーチェ(ギルド)のリーダーとメンバーとも言える。だけどまるで友達以上恋人未満の関係性は一体何と表せば良いのかが分からない。
「……う……て……。」
「っ……イラ……? どうしたの……?」
それまで黙っていたイラの声が微かにではあったが、耳元に聞こえた事で意識が現実に引き戻された。
それと同時に胸の鼓動が早まっている理由が他にもあった事に気付いた。
イラが怒っているからだ。
私の知っている普段のイラは楽しそうに笑い、目新しい物を見ると楽しそうにしていて、多少の好き嫌いはあるようだけど食事の時には殆どの料理を美味しそうに食べていて、見ているだけで毎日が幸せそうに過ごしている。
かと思えば時々子供みたいに拗ねたり、私よりも私や皆の事を真面目に考えてくれていたりもする。
だから私はイラが怒っている光景と言うのを殆ど見た事がないような――ううん、一度も見た事が無い訳ではない。
ファングの街の協会で私が【蒼い疫病】だと非難されて怯えていた時に、イラは周囲の人達に向かって見た事もないように怒っていた。けれど明確にイラが怒りの感情をむき出しにしていたのは、その時と今回の【強欲のアワー】との戦いにおいてだけのように思う。
そしてその二度ともが怒りの矛先は私や仲間達を傷つける存在に対してのものであり、イラの怒りが直接的に私達へと向けられる事は一度もなかったのだ。
だからだろうか、紅い瞳や黒い球体がイラに及ぼしている悪影響が心配で堪らない筈なのに、けれど少なくともイラを失うような事にならなかった事は嬉しい筈なのに、それ以上に私の心はイラの怒りが自分に向けられていると言う事に強い恐怖を感じ、縛り付けられていた。
心臓の鼓動が、動悸が早くなってしまう位に強い恐怖。【強欲のアワー】の力を見た時に仲間を失ってしまうのではないかと不安に駆られてしまった時と同じ位に強い恐怖感に。
やっぱりあの黒い球体は良くない物だったんじゃないか? 私が黒い球体からイラを守れなかったせいで、イラが死んでしまうのではないか?
或いはアワーとの戦いの全てをイラに押し付けてしまった事を怒っているとか? 紅目の状態になってからイラの様子がおかしいし、役立たずの仲間は要らないとか、アワーの魔の手から命を救ったから恩返しは完了したとか、何とか言い出してリベルーチェ(ギルド)を去ったりしないだろうか?
イラが死ななかった事が、生きていてくれる事が嬉しい筈なのに、どんな形であれイラを失う可能性がまだ残っているかも知れないと思ってしまって、恐怖が消えない。不安が消えない。胸の奥にある心臓がギュっと摑まれたかのようにキュゥと悲鳴を上げ続けている。
そうして再び彼の名を口にしようとして「イ」とまで言った所で、先にイラが言葉を紡いだ。
「どうして、あんな奴の言う事を聞こうとしたんだ!」
それは私の想像とは、私が恐れていたものとは異なる言葉だった。
一先ずはイラに別れ話を切り出されなかった事と、彼が今すぐに死ぬような事はないと思えて、僅かな安心感が胸の奥底で湧き上がった。
そしてイラが私の事を心配してくれていたのだと、改めて実感出来た事に僅かな嬉しさと喜びさえもが感じられた。
けれど、それらとは異なる新たな恐怖も生まれた。
イラの言葉が、彼の口から紡がれた筈のそれが、イラのものとは思えない程に聞いた事もないような恐怖感を増すような、怒声だったからだ。
「ツァーイは自分の事を一番大切にしていてよ!」
無理だよ、そんなの。
きみに出会う前なら確かに自分の身の心配だけをしていたよ。
でも今の私にとっては一番大切なものはイラで、フェアリとファクトが二番目に大切で、私の事は三番目位なんだよ。
そう思えてしまう程に私は一人を恐れている。孤独を恐れている。
独りぼっちで旅をしていたあの頃に戻りたくないと思ってしまっている。
三人の仲間達が大切な存在なのだと思ってしまっている。
そんな風に思える今があるのはイラのお陰であり、イラのせいなんだから、そんな事を言わないでよ。
それよりもイラの方こそ、もっと自分を大切にしてよ。
ファングの街で協会から逃げる時も、雷毒の大蛇の時も、今回の【強欲のアワー】の事も、いつもいつだってイラは自分の力量を把握している癖に、単純な力量では自分が私よりも劣っている事を知っている癖に、私の為だと言って無理や無茶を平気にするんだから。
「いざって時は僕を見捨てて良いから、囮にしてくれても良いから、逃げろよ!」
うん。それも無理だよ。
だってそうしたら、仮に逃げる事に成功したとしても私はまた独りぼっちになっちゃうんだよ?
どんな街に行こうと、どれ程小さな村に行こうと、この世界中で【蒼い疫病】だと蔑まれる私にとって、私の名前を呼んでくれて、私の存在を受け入れてくれている仲間がどれだけ大切だと思っているの?
特に初めての仲間でもあるイラは、私にとって特別な存在なんだよ?
私、きみのお陰で沢山の感情を思い出せたし、沢山の感情を知る事が出来たんだから。
イラを失うような事があったら、きっとその感情の数々も壊れた砂時計から砂が零れ落ちるように失っちゃうと思うから。
そうなったら仮に新しい仲間と出会えたとしても、私はきっと今程仲間の事を大切に思えなくなっちゃうかも知れない。
それって凄く寂しい事だよね?
それに今となってはもう、きみのいない世界なんて想像も出来ない位、私にとって君は必要なんだよ。
「ツァーイがあいつの言いなりになっても絶対に僕達は殺されていたし、万が一本当に僕達が見逃されたとしても、ツァーイが酷い目にあうんだよ!? そうなっていたら、俺は俺を許せないし、ツァーイの事も許せないから!」
ああ。やっぱり紅目でも、様子がおかしくても、イラはイラなんだね。
俺だなんて、似合わない気もするけれど、言葉も普段より乱暴だし、少しキツイし、普段のイラを知っているからこそ凄く恐い。
だけどそれでも自分より私の事を考えてくれていて、優先してくれて、根は優しい普段のイラのままだと思えてしまっていて、結局は自慢の仲間。
今もきみから感じられる『世界に存在してはいけない』或いは『存在そのものが悪である』と言った気配や力が、もしも、仮に、万が一、ううん憶が一にでも、本当にそうだったとしても、私がイラの事を大切だって想っている事は変わらない。
だけど、イラの方こそ私の話を聞いてくれないって言う所が、私としては許せない。
だって私は大人しくアワーの言いなりになるつもりなんかなかったんだよ?
あの時イラがちゃんと話を聞いてくれたら、私はアワーとの取引に応じるように振るまいながら、隙を見てファクトを救出して、アワーを倒すなり、四人で逃げるなり、取引を反故にするつもりだったんだよ?
なのにイラの方こそ話を聞いてくれなくて、急に様子がおかしくなって勝手に戦いを始めるし、最後には一人で空の上にまで行っちゃって、私がどれだけ心配したと思っているの!?
イラが怒りながら次々と言葉という剣を私に向けて来る。
それによって感じられる恐怖は決して簡単に消えたりしないけれど、それでも私の心は比較的穏やかになっていた。
イラが生きて、喋っていて、ここに居てくれる。それだけで十分だから。
それに普段のイラならば言わないようなその怒声は、もしかしたらきみの本心なのかも知れなくって、そう思ってしまえたら、それはそれで悪くはないのかも知れないとさえ思えるし。
だって少なくともイラは私の事を【蒼い疫病】だからって理由で蔑んだり、嫌ったりしている訳じゃないんでしょ? イラは怒っているけれど、言葉の節々からは私の事を想ってくれているんだって伝わって来るから。
だけどだからって言い返したい事や、話し合いたい事が無い訳じゃない。
イラが私に怒っているように、私だってイラに言いたい事が幾つもあるんだから。
なのに何故だか喉から言葉が上手く出て来なくって、その代わりに胸の奥できみに伝えたい言葉が無造作に幾つも湧き上がってくる。
だけどやっぱりどれから話せば良いのかが分からずに、上手く伝えきれる気がしなくって、私はイラの紅い瞳を見つめ続けながら、きみの言葉をただただ聞き続ける。
「っ……お願いだから、ツァーイは自分の事を一番大切にしてよっ……!」
そうしてイラが数度目の怒声を言い放った時に異変は起きた。
最初に言い放った怒声と殆ど同じ言葉ではあったけど、どこか苦し気に口にしたその言葉と共にイラの紅くなっていた瞳が僅かにではあるけれど、薄っすらとした色合いになった。
「ツァーイがいなくなったら、僕は生きて行けないんだから……」
一人称が俺から普段の僕になり、口調も聞き慣れた優しい物へと戻っていく。
私はそのまま瞳の色も青に戻って、普段の、私が知っているイラが戻ってくれるかも知れないと少しだけ期待した。
けれど、そうはならなかった。
強い力で私の両肩を掴んでいたイラの両手が、急に力が抜けたかのようにだらりとし始めて私を拘束するのを止めたようだ。
そのままイラは眠るかのように瞳を閉じて、身体も崩れるように私の方へと倒れて来た。
それと同時に超至近距離にあったイラの顔が倒れて出した時に私は、咄嗟に上手く反応をする事が出来なくて、何とか出来たのはイラの背に自分の両手を回して、抱き止める事だけだった。
まず最初に鼻と鼻がぶつかった。
ちょこんとした本当に何て事はない感触。
けれど不思議と凄く恥ずかしい事をしている気分になって、頬の熱が増々熱くなったように感じて、もしかしたら頬だけじゃなくって、顔中が真っ赤々になっているのではないかとさえ思えた。
それでもなおイラの身体は私の方へと倒れたままになっていて、鼻と鼻がぶつかり合った感触は数秒程度で流れるように感じられなくなった。
そのまま、もしかしたら、唇と唇が重なってしまうのではないかとも思ってしまって、私は反射的に目を閉じた。
何でそうしてしまったのかが、自分でも分からない。
私とイラが恋人ではないから?
私のイラに対する好意が恋愛感情なのか分からないから?
イラが私の事をどう想っているのかが分からないから?
瞬間的に様々な可能性が思い浮かんだけど、そのどれもに答えは出ない。
そうこうして数秒か、数十秒かは分からないけれど、とにかく少しばかりの時間が経過した。
だけどどれだけ時間が経っても私の唇に何かがぶつかったような感触はしなくって、私は意を決して瞳を開けてみた。
すると視界の先に見えるのはイラの顔……ではなくて、快晴の空だった。隣に視線を向けると、イラの顔は私の左肩に置かれるように被さっていた。
「……でも、ツァーイが無事で良かった……。」
その事に気付いたのとほぼ同じタイミングで、イラが私の耳元でボソっと呟いた。
それは先程までの怒声ではなく、普段のイラのような優しい声音だった。
さっきの掠れるような声よりも更に小さな声で、もし耳元で囁かれるように聞けなかったら、私はその言葉を認識する事が出来なかった事だろう。
「……うん。イラが守ってくれたお陰で、私は大丈夫だよ。」
さっきまでは言葉が上手く出て来なかったのに、普段通りのイラの声音を聞く事が出来たからか、気付けば私は同じようにイラの耳元に囁くように呟いていた。
それを聞き届けてくれたのか、そうではないのかは分からないが、イラは今度こそ力尽きたかのように、身体中の力を抜いて、私に身体を預けるかのように倒れ伏した。
私がイラを抱き止める格好になっていたお陰もあって、殆ど態勢に影響は出なかったけれど、イラの顔だけは肩に置かれたような状態ではなく、埋もれるような状態に下がっていた。
「イラ? ねぇ、イラ……?」
私はイラに呼びかけたけれど、返事はなかった。
「イラ……! イラ、お願いだから返事をしてよ……!」
何度も、何度も、何度も呼びかけた。
だけどイラは目覚める事がなく、それから様子を窺っていたフェアリとファクトがやって来て何かを言っていたけれど、私はすぐにそれを理解する事が出来ない程にパニックに陥っていた。
「そうだ、治癒魔法。回復をさせれば、きっと――」
それから私は何度も治癒魔法を使用した。
ホーリーヒールの様な強力なものを唱えられるだけの魔力は残っていなかったけれど、それでも残っている限りの魔力を尽くした。
ヒール、ハイヒール、ヒール、ハイヒール、ヒール、ハイヒール――
その甲斐があってアワーとの戦いで負った傷跡は全てが癒された。だけどどれだけ治癒魔法を使っても、結局この日はイラが目覚める事はなかった。




