記憶一―イラ、それは記憶喪失で目覚めた者―
深い深い眠りの中。暗闇の中を落ち続けているような感覚だけがあった。
どこまで落ちても底が見えず、深淵の中をただただ落ち続けていた。
「――……ぇ、きて……」
するとどこからか女の声が響いてきた。声が小さくて聞き取り辛いけど、とても綺麗な声だという事は理解出来た。
「――……起きて……」
始めは小さかった女の声が少しずつ大きく響いてくるようになり、徐々に聞き取り易くなってきた。
「――ねぇ、起きてよ!」
遂に声が完全に聞き取れる程に響いた。その途端に今まで暗闇だった世界が眩しく光り始めた。――眩しすぎる程に。
今まで眠っていたのか意識が朦朧として、焦点が定まらない。
そんな状態で目覚めた僕の視界に一人の少女の顔が映った。
空のように明るい蒼色の髪、海のように深く吸い込まれそうな程に蒼い瞳。
それでいて水色のローブ(フード付きだが今は外している)を身に着けている。
全身が明るい蒼だからか定まっていなかった焦点が少しずつハッキリとしていく様な気がした。
「――天使……?」
その全身が蒼い少女がこちらをまじまじと見つめていたせいか、反射的に僕も彼女を見つめ返して無意識的にそんな事を言ってしまった。
言葉を発した瞬間に自分の声が反響するような感覚を覚え、その反動で驚くほど一気に意識が覚醒していくのが分かった。
「まだ寝ぼけてるの?」
先程の発言のせいか蒼い少女がクスクスと笑った。
それは決して子馬鹿にしているような嫌な感じではなくて、少しからかわれている感じの愛嬌のある笑い方で可愛らしい微笑みに思わず見惚れてしまいそうになった。
さっきは無意識的に天使だなんて口に出したけれど、本当に「私は天使です!」と言われても納得出来る程に彼女は可愛らしいと思う。
「う、うん、まだ少し眠いかな。ふわぁ……」
見惚れていた事を誤魔化そうとした訳ではないけど、まだ残っている眠気を抜くためにも軽く欠伸をしながら横になっていた体の上半身を起こす。
それと同時に首をキョロキョロとしながら周囲を確認するとここはどこかの高原で、そこにあった大きな木を背もたれにして眠っていたようだ。
だけど何かがおかしい気がする……高原に来た覚えも木の根元でお昼寝をした覚えもない。
目の前にいる少女の言う様にまだ寝ぼけているのだろうか?
「こんな所で何をしていたの?」
覚醒し始めたばかりの頭で考え事をしながら首を傾げていると少女が問いかけてきた。
「それが僕にも分からなくって……君はここがどこなのか知ってる?」
「えっ?ここはファングの高原だよ。」
聞き覚えのない場所だ――そう思った瞬間に違和感に気付いた。
その違和感が何なのかを考え始めると、原因はあっさりと分かった。
今まで『ここで何をしていたのかが分からない』と思っていたけど、そうじゃない……『ここで目覚める前の記憶が無い』のだ。
「なにこれ! 何も思い出せないんだけど、どうしよう!」
そう気づいてしまった瞬間に自分でも驚く程に取り乱した。
「えぇ!? 家族は? 住んでいる場所は? 名前は?」
それにつられて蒼い少女が驚きながらも確認をしようと質問攻めをしてきた。
聞かれても何も分からないよ!と思ったけど、一応聞かれた事について考えてみると――。
「うーん……家族は分からない。……住んでいる場所もあるのか分からない。……あっ!名前は確かマド……違う、イカ……じゃなくって……イラ。――うん、そうだ、イラだ!」
突然頭の中に名前がポンっと浮かんできた。
浮かびきるまでの間に別の名前が引っかかったけど、多分まだ眠気が残っているとか記憶がなくて混乱しているとかそんな感じだと思う。
イラ。それが僕の名前だ。――だけどその他の事に関してはやっぱり何も頭の中に浮かばない。
「良かった。名前は覚えてるんだね。私はツァーイ、ツァーイ・ハーツだよ。よろしくね、イラ。」
「よろしく、ツァーイ。」
蒼い少女――ツァーイがまるで自分の事かのようにホッとしながら手を伸ばして来た。
僕も手を差し出して彼女の手を軽く握り返して、ツァーイに引き上げられるかのように立ち上がる。
立ち上がって気づいたけどツァーイの身長は僕と同じ位だ。
目線が同じなので彼女の方を見ているだけで蒼い瞳に吸い込まれそうな錯覚を覚えた。
「それにしても何も思い出せないなんて、これが記憶喪失ってものなのかな。これからどうしよう……」
ツァーイの瞳から少しだけ目線を外してうーん、と考え込むような仕草をした。
だけど考えた所で行くべき場所も帰るべき場所も身元もその他何もかもが分からないので思いつく訳がなかった。
「――所でさ、ツァーイは何でここに来たの?」
考えても何も分からないので一旦話題を変える事にした。
この辺には人気があるようにも思えないのにツァーイがここにいた理由が少し気になった。
「私?私は冒険者で旅をしているの。今は麓にある街でクエストを受けてこの高原に来ていたんだけど、クエストの途中で赤い流れ星が高原の頂きに落ちて行くのを見かけたの。それで気になって来てみたら流れ星は見つからなくって、代わりにここで眠っているイラを見つけたんだよ。」
何それ怖い。
もしかして僕が空から(しかも流れ星と見間違われる程の速度で)落ちて来た……とかは流石にないよね?
近くにそれっぽいクレーターとか隕石とかは見当たらないから流れ星が落ちた位置がここからずれている可能性もあるけど。
でも考えても答えは分からないし、それとは別に興味を惹かれるものがあった。
「旅か……良いね。色んな場所に行って、色んな物を見て、色んな物を食べて、色んな事を知って、色んな人と出会えて……凄く楽しそうだね。」
「……そんなに良い事ばかりじゃないよ。」
旅。何故かは分からないけどその一言を聞いた瞬間に心がざわついた気がした。
記憶をなくす前は自分も旅人だったのか、それともただ憧れていただけなのか、理由は分からないけど、何故かその言葉にとても惹かれた。
けれど僕の言葉に対してツァーイの反応は少し乏しかった。
「それよりイラはこれからどうするの?」
「うーん……折角だし僕も旅をしてみようかな。どうせ何も覚えていないから行きたい場所も帰る場所も分からないし。もしかしたら僕の居場所なんて既にないのかも知れないけれど……」
目覚めた当初こそはパニックになっていたけど、失くした記憶に関してはそこまで気にならなかった。……と言うより何となくだけど気にしてはいけない気がした。何故かは分からないけれど。
どうせ記憶が真っ新な白紙になってしまったのなら、僕もツァーイみたいに旅をしてみようかなとふと思い至る。
何も覚えていないならこれから行く場所、見る物、食べる物、知る事、出会う人、何もかもが真新しく感じられると思ったから。
それにこれも何となくだけれど、僕の居場所と呼べる場所はどこにもない気がした。
世界中を旅しても記憶を失う前の自分がいた場所や親しい人は見つかる事が無いような、言いようのない孤独感が胸の中をキュッと締め付けている気がした。
記憶喪失と言う現象が唐突に起こった影響なだけで、僕が感じている錯覚なのかも知れないけれど。
「そうだよね……居場所が分からないのって辛いもんね……」
しかし何故か僕が返した言葉にツァーイは何かを考えこんでいた。
あれ、何か僕よりも記憶喪失の件を深刻視していない? そんな風に言われると何故か罪悪感が湧いてくるんだけれど……
「うん、決めた。――ねぇイラ、もし良かったら私と一緒に来てくれないかな。」
考え込んでいる様子のツァーイが何かを決心したかの様に頷きながら告げた。
「それってツァーイの旅に着いて行っても良いって事……?」
「うん。イラがこのまま一人で旅に出て、万が一の事があったら私も目覚めが悪くなるからね。だからイラが記憶を取り戻すまでの間は私が面倒を見るよ。……その代わり色々とお手伝いをして貰う事になるとは思うけれど、少なくともイラが一人でどこかに行くよりは安全だと思うの。」
確かにこのまま一人で旅に出た所で食べ物や水に困る可能性は十分にあるし、そもそも地理が分からないのだから人気のある場所に行けるかも分からない。
仮に町や村と言った場所に着けたとしてもお金を持っていないから何も出来ない可能性も大きい。
それならツァーイの提案を受け入れて彼女に着いて行った方が少なくとも安全ではあると思う。
知らない人にホイホイと着いて行っては危険な気もしたけれど、ツァーイとは出会って間もない筈なのに不思議と彼女の言う事は信じても大丈夫だと思えた。
それが目覚めた時に見たツァーイの笑みがとても可愛らしかったからなのか、それとも単純に記憶喪失後に出会った初めての他人だからなのかは分からないけど。
「そうだね、それならツァーイの言葉に甘えさせて貰う事にするよ。ありがとう、ツァーイ!これからよろしく!」
「うん!これからよろしくね、イラ。」
だからツァーイに着いて行く事を決めて、彼女に感謝と了承の言葉を述べる。
僕に何が出来るのかも分からないけれど、今はツァーイの足手まといにならないように頑張ろう。
「それじゃあまずは麓にあるファングの街まで行くよ!クエストの完了報告もしないといけないし。」
そう言えばさっきもクエストって言ってたけど、何の事だろう?そこら辺の話も後で聞いてみようかな。旅に同行させてもらう以上ツァーイのお手伝いをしなくちゃだし。
記憶は無くしてしまったけど、今はこの先の旅でどんな事があるのかがただただ楽しみだった。
逸る思いを押さえないままに僕達はこの高原から麓にあると言う街へと歩き出し始めた。
・キャラクター紹介
『イラ』
種族:人間?(記憶喪失の為種族を理解していない)
年齢:15歳?(記憶喪失の為実年齢を覚えていない)
性別:男
身長:160cm
髪色:赤色
瞳色:青色
基本的には前世である『異光 円』の状態から引き継ぎとなっているが、転生の際に髪や瞳の色、名前などが変更となっている。
円が転生の際に記憶と人格のリセットを願った事によって円が『僕』と呼ぶ『一番目の人格』の状態になっているので一人称が『僕』になっていたり、言葉も『二番目』や『三番目』の時よりも優しい―と言うよりは幼い―ものになっている。
前世で様々な物語を好きだった影響でツァーイが発した『旅』と言う言葉に惹かれて彼女と行動を共にする事を決意する。
失った記憶に当初は混乱をしていたが思い出したいとは強く思えない様子で、これは前世の円が自ら記憶を失う事を望んだ影響なのかも知れない。
『ツァーイ・ハーツ』
種族:人間
年齢:15歳
性別:女
身長:160cm
髪色:水色(空色に近い)
瞳色:水色(海色に近い)
異世界転生によって現れたイラの第一発見者となった少女。
彼女はある事情によって一人で旅をし続けていたが、その理由や目的に関してはまだ秘密。
記憶喪失で行く当てがなかったイラを何かと重ね合わせているようで、旅に誘う。
前回の話はプロローグと言う事で本編の前日課でしたが、ここからイラとツァーイの物語が始まります。




