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公爵様、私より前に出ないでください!  作者: 九葉(くずは)


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18/21

第18話 あなたの前は、私の場所です

 頭上で激しい爆発音が轟き、結界の光のドームを伝って、四方八方へ炎の奔流が流れ落ちていく。

 光の膜が一瞬激しく波打ったため、私は奥歯を噛み締め、その箇所へ全身から魔力を注ぎ足した。範囲は絶対に広げない。今の二人分の広さを、必要な強さで維持し続ける。

 そのことだけに集中しているのに、背筋を冷たい汗が一筋、ツーと伝い落ちていった。


 炎が結界の外の岩盤を焼き、光の向こうで陽炎が揺れていた。

 直接吹きつける炎と熱は遮れても、息をするために取り込む空気までは冷やせない。炎の合間に熱気が入り込み、光の内側も少しずつ暑くなっていた。喉がカラカラに渇き、腰の水筒の冷たい水を思い出しそうになったが、今この瞬間に栓を開ける暇などどこにもなかった。


 ボォッ、と音を立てて火炎の奔流が途切れた。

 私は即座に顔を上げ、視界を塞ぐ煙の薄い切れ目を探した。


「右だ!」


 アルヴィン様の叫び声に応じ、右へ素早く向き直りかけて――靴の爪先をピタリと止めた。

 そこには、昨日の訓練でアルヴィン様に見つけていただいた、あの浅い窪みがあった。上空から降り注いだ灰が薄く積もって、穴の縁が見えにくくなっていたのだ。


「左から回り込みます!」


 叫びながら、窪みを大股で避けて左側へ足を踏み直した。

 私の背後をアルヴィン様の靴音が滑らかに移り、私の右肩のすぐ脇、視界の端に、彼が構える白刃の切っ先が滑り込んできた。私の肩に近づきすぎることもなく、遠すぎることもない、訓練で何度も確かめ合った位置に、彼はいてくださった。


 訓練と同じ位置だ。足場が変わっても、ついてきてくださった。

 私はようやく肺の奥から熱い息を吐き出した。


 竜の飛行高度は明らかに下がってきていたが、まだ胸元の急所はこちらを向いていない。

 見えているのは、分厚く硬い鱗で覆われた腹部と、折り畳まれた前脚の太い関節だけだった。


「もう少し引きつけるぞ」


 アルヴィン様が囁いた。

 私は頷いたが、早く降りてきてほしいとはどうしても思えなかった。

 降りてこなければ、いつまでもこの極限の防御を維持し続けなければならない。だが、降りてくれば――あの記録にあった、恐ろしい巨大な鉤爪が直接襲いかかってくるのだ。


 早く来てほしい。

 けれど、まだ来てほしくない。


 どちらの感情が勝ろうとも、頭上の怪物は容赦なく羽ばたきを続けていた。


 バサリ、バサリと翼が空気を打つ重低音が、周囲の岩壁に反響する。

 私は首の角度をわずかに緩め、眼球の動きだけで上空の影を追った。ずっと真上を見上げ続けていたせいで、首筋の筋肉が悲鳴を上げ始めていた。


 喉の奥で、唾を飲み込もうとした。

 うまく飲み込めなかった。舌の先まで乾き切っていて、声を出そうとすると息ばかりが擦れる。私は唇を一度湿らせ、結界へ送る魔力が途切れていないことを確かめた。

 まだ防げる。けれど、まだ防げるからといって、いつまでも同じことを続けられるわけではない。

 アルヴィン様は竜の胸を狙っておられる。私の背中越しでは、指先の震えまでは見えないはずだった。大丈夫ですとだけ答えたら、まだ待てると思われてしまう。

 退路まで結界を保つ力も残しておかなければならない。私は乾いた喉で、大きく息を吸い込んだ。


「結界はまだ保てるか」

「はい! ただ……これ以上、長くは待てません!」

「分かった。次で降りてこなければ、南の谷へ退く」


 そう答えると同時に、アルヴィン様が背後で剣の構えを変えた。

 アルヴィン様が私の右肩越しに、鋭い風の刃を一閃させた。

 刃は竜の左翼の付け根へ正確に命中し、黒い巨躯がバランスを崩して大きく傾いだ。


 竜の首が、獰猛な怒りを宿して、まっすぐに地上を見下ろした。


 私は足元を一瞬だけ確認した。

 窪みを避けた分、最初の立ち位置からわずかにズレている。この角度から竜が突っ込んできた場合、アルヴィン様が胸元を撃ち抜くための射線を右肩の脇に空けるには、どこへ足を踏み出せばいいか。

 完全に平らな岩肌を瞬時に見つけ出し、即座に顔を上げた。


 黒翼竜は、すでにこちらを視界のど真ん中に捉えていた。


     ◇


 羽ばたきの音が、急激に甲高い風切り音へと変貌した。

 大きな旋回を完全にやめ、黒い巨躯が頭からこちらへ向けて斜めに傾ぐ。


「――来るぞ!」


 私のすぐ背後で、アルヴィン様の張り詰めた声が炸裂した。


 私は足を止めた。

 やっと、足を止めることができた。上空の旋回に合わせて体を回転させ続ける必要がなくなり、泥濘のない硬い岩盤の上へ、両足の靴底を完全に据え付ける。


 そのことに安堵できたのは、ほんの一瞬だった。


 黒翼竜が、急降下してくる。

 岩棚で見たときよりも、上空を旋回していたときよりも、比べものにならないほど巨大だった。近づけば大きく見えるのは当たり前の道理なのに、視界のすべてがその漆黒の質量で埋め尽くされていくにつれ、怪物がその場でさらに巨大化しているような錯覚に囚われる。


 喉の奥が引き攣り、呼吸が完全に停止した。

 私は両腕を天へ突き上げたまま、結界の膜へ魂を削るように魔力を注ぎ込み続けた。


 胸元を見る。

 翼が開く瞬間、図に赤い印がついていた、あの薄い鱗を見極める。

 そう心に決めていたのに、私の視線はどうしても、頭上から迫り来る巨大な前脚――大人の胴回りほどもある鋭利な鉤爪へと吸い寄せられてしまう。


 バサァァァッ――!!


 地面まであとわずかというところで、竜の巨大な翼が信じられないほどの力で大きく開かれた。

 猛烈な突風が吹き荒れ、急降下の速度が一気に減速する。

 それと同時に、太い前脚が前方に突き出され、湾曲した凶悪な漆黒の爪の切っ先が、私たちの頭上を正確に捉えた。


 ――あれを、受け止める。


 怖かった。

 本能が、今すぐ踵を返して逃げ出せと絶叫していた。

 けれど、今ここで私が半歩でも足を引けば、背後で胸元を狙っているアルヴィン様を直撃の巻き添えにしてしまう。


 背後で、ジャリと激しく砂利が鳴った。

 アルヴィン様の構える剣先が私の右肩の横へ飛び出し――彼の右肩が、私の右肩と完全に並びかけた。

 竜の爪が私に迫るのを見て、体が動いてしまったのだろう。けれど、その肩が私を越えたら、もう守れない。


「公爵様、私より前に出ないでください――!!」


 喉が裂けるほどの叫びだった。

 けれど恐怖のあまり、声は自分でも信じられないほど上擦って細くなってしまった。

 言い直している時間など一瞬もなかった。私は隣のアルヴィン様を振り返ることなく、先ほど確認した平らな岩の上へ、左斜め前に踏み出した。彼を背後に収めながら、右肩の脇を空ける。


 迫り来る鉤爪の向こう側、大きく開かれた翼の狭間に――白く柔らかい、胸元の鱗が完全に露出していた。

 私の右肩のすぐ脇から、真っ直ぐに急所を貫ける、訓練で何度も探した射線だった。


 私の肩の真横まで出てきていた白刃の切っ先が、ハッと息を呑む気配とともに、わずかに後方へ引かれた。

 アルヴィン様は私を追い越すことなく、いつもの半歩後ろへと踏み止まり、渾身の力で剣を構え直した。


「――任せる!」

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