第17話 炎の向こうに、あなたがいる
「退路の目印は見えているか」
背後からのアルヴィン様の低い囁きに、私は視線だけを動かして、歩いてきた道筋を確かめた。
低い岩の突起を二つ越えれば、連日の訓練で使い慣らした開けた岩場へ出られる。どこに足を置き、どこを避けるべきかも、下見の段階ですべて叩き込んである。
「はい。二つ目の岩まで見えています」
はっきりと返事をし、私はアルヴィン様の半歩前へ進み出た。
深く息を吐き出し、魔力を解放する。極限まで二人分に絞り込んだ薄青い光の膜が、足元から滑らかに立ち上がり、私たちの頭上と背後を完璧に覆い尽くした。
「お願いします!」
アルヴィン様が佩刀を一気に抜いた。
私の右肩を綺麗に躱し、遥か彼方の岩棚へ向けて、渾身の風の刃を解き放つ。
キィィィン、と大気を切り裂く鋭い高音が響き、黒い鱗の表面を白い火花が走った。
致命傷には遠い。けれど、竜を怒り狂わせるには十分すぎる一撃だった。
巨竜が首をもたげ、刃が飛来したこちら側へ、巨大な頭部を向けた。
濁った金色の双眸が、ぎらりと私たちを捉えた。
「退くぞ!」
アルヴィン様の鋭い号令とともに、私は右足を後ろへ引いた。
背後で彼が先に下がる。二人の間の半歩の間隔を崩さないよう、私もまったく同じ歩幅で後退する。
ズズズン、と岩棚から鉤爪が離れた。
巨大な皮膜の翼が大きく広がり、頭上の青空を一瞬にして暗黒で覆い隠す。
たった一度の羽ばたきで、巣の周囲に積もっていた枯れ木や巨石が小枝のように吹き飛んだ。遥か彼方で立ち木が根こそぎ折れる凄まじい轟音が響き、黒い巨躯がふわりと宙に浮き上がった。
私は二歩、連続して下がり、背後からのアルヴィン様の冷静な声でピタリと足を止めた。
「踵のすぐ後ろに浮き石がある。靴半分、左へ移れ」
指示通り、視線を落とさずに左足を踏み直す。
あれほど頭に叩き込んでいたはずの地形なのに、上空の竜から一瞬たりとも目を離せない極限状態では、その小さな石を見落としていたのだ。
いっそ結界を大きく広げてしまえば、足元を確認する間もアルヴィン様を光の内側に留めておける。
一瞬だけそんな甘い考えが脳裏をよぎったが、二人の距離はまだ保たれていた。不要な魔力を浪費するわけにはいかない。私は結界を絞り込んだまま、靴半分の幅だけ左へ寄せた。
「通れます!」
短く叫び、再び後退のピッチを上げる。
黒翼竜の飛翔速度は私たちの歩行速度など比べものにならず、あっという間に岩棚と岩場の間の上空へと迫ってきた。
頭上を横切る影に合わせ、光の膜の上側へ意識を寄せる。
まだ攻撃は届いていない。それなのに、翼が大きく空気を打つたび、私は反射的に結界を厚くしかけていた。ここで力を使いすぎたら、肝心の炎が来たときに困る。
足元から注ぐ魔力を整え、両肩に入りすぎていた力を少しだけ抜いた。背後の靴音が、私の一歩にぴたりと重なる。その音を頼りに、私はもう一歩、岩場へ向けて下がった。
「足場、確認しました!」
その大きく裂けた喉の奥に、不気味な赤い閃光が灯るのが見えた。
◇
火炎は、机上の計算よりも遥かに早く、凄まじい衝撃を伴って着弾した。
ドゴォォォッ――!!
結界の正面に激突した高熱の紅蓮が、光の曲面に沿って左右と頭上へ一気に吹き荒れた。
青空が一瞬にして消滅した。目の前も、右も左も、視界のすべてが狂乱する赤と黒の業火に埋め尽くされ、その炎のカーテンの向こうに竜がいるのか、それともすでに側面へ回り込まれているのかすら判別がつかない。
私はその場に両足を強く踏ん張った。
結界へ魔力を注ぎ込みながら、意識を光の内側へ集中させる。背後に立つアルヴィン様の革靴の爪先が見える。風の刃を放つべく剣を構えた右手も、しっかりと青い光の内側に収まっている。
防げている。完全に防ぎきれている。
頭ではそう理解できても、肺に空気を取り込むのを本能が強烈に拒絶した。
数ミリの光の膜を隔てたすぐ外側に、すべてを焼き尽くす高熱の地獄があるのだ。こんな至近距離で、普通に息を吸って肺が焼けないだろうか――そう思うと、どうしても喉が強張ってしまう。
「保てます……っ!」
声に出して叫んだ瞬間、肺から息が吐き出され、新しい酸素を吸い直すことができた。
気を取り直し、睨みつけるように前を見据える。
頭上を覆っていた炎の勢いがわずかに弱まり、煙の切れ間から青空が戻ってきた。
だが、まだだ。途切れたように見えても、間髪入れずに二撃目の炎が降り注ぐ可能性がある。
私は結界を維持したまま、両腕を絶対に下ろさずにその場に踏み止まった。
ようやく炎が完全に晴れ渡ったとき、周囲の岩肌は煤で黒く染まり、陽炎が立ち込めていた。
その焦土の上を、巨大な黒い影が風を切って猛スピードで横切っていく。
「左へ旋回した!」
アルヴィン様の鋭い声に合わせ、私も即座に体の向きを左へ旋回させた。
巨大な翼を大きく傾けた黒翼竜が、開けた岩場の上空を円を描くように滑空していた。火炎は吐いてこない。けれど、地上へ降りてくる気配もまだ見せない。
「竜が向こうを回っている間に、岩場の中央まで退きます!」
私は背後の安全を一瞥して確認し、上空の竜を視界の端に捉え続けたまま、後ろ向きに後退した。
二つの低い岩の隙間を滑らかにすり抜ける。外套の裾が一瞬だけ突き出た低木の枝に引っかかり、私は即座に足を止めた。片手で手早く枝を払い落とし、裾を持ち上げて再び下がる。アルヴィン様も足を止め、背後で待っていてくださった。
広い岩場の中央へ抜け出た瞬間、冷たい突風が真正面から顔を叩いた。
自分の頬が、冷や汗でびっしょりと濡れていたことに、そのとき初めて気づいた。
訓練用の木板の的も、張り巡らせていたロープも、もう何もない。
破片も、予備の板も、荷車も、すべて綺麗に撤収されている。
昨日の訓練で騎士たちが控えていた場所まで綺麗に見通せる広大な空間の真ん中で、私はあらかじめ決めておいた、あの窪みを避けた足場の上へと両足を下ろした。
◇
黒翼竜は、すぐには降りてこようとはしなかった。
私たちの頭上数十メートルの高度を悠然と横切り、巨大な翼を広げたまま、再び大きな弧を描いて旋回する。
私はその不気味な飛翔軌道を追って、円を描くように体の向きを変え続けた。アルヴィン様も、私の背後の定位置を影のように寄り添って移動する。
彼が砂利を踏みしめる音がするたび、振り返ってその無事を確かめたい衝動に駆られたが、一瞬でも上空から目を離せば、急降下の初動を見失ってしまう。
「私は後ろにいる。前だけを見ていろ」
アルヴィン様の低く力強い声が、背中越しに響いた。
私は無言で力強く頷いた。
後ろにいてくださる。
私の背中には、この方がいてくださるのだ。
今は、それだけを信じればよかった。
頭上の竜の巨大な顎が、再び大きく開かれた。
鉤爪よりも早く、その喉の奥で圧縮される禍々しい真紅の光が見えた。
二度目の火炎が、真上から降り注いできた。




