第16話 帰ったら着たい服がある
二人だけで。
私は握り締めていた手綱を、思わず強く握り直した。さっきまで足元の小石ばかり気にしていたのに、今は隣のアルヴィン様の横顔を見つめすぎて、危うく平坦な道でつまずきそうになってしまった。
契約延長の条件自体は、先日、セドリック様を交えて三人ですでに大筋を確認し終えていた。引き続き専属護衛を務めること、定期的な休養日の設定、給金や部屋の継続について。
あとは細かな文言を整え、現在の契約の最終日に正式に署名を交わすだけの手筈になっている。
その打ち合わせでは、契約書の文言について細かく質問を重ねた。けれど今は、その食事の席に誰が同席するのかも、何の名目の食事会なのかも、聞き返す必要なんてどこにもなかった。
二人だけで行きたいと、彼自身の言葉で言ってくださったのだから。
「はい! ぜひ、喜んでご一緒させてください」
アルヴィン様の口元が、心底嬉しそうに緩んだ。
「最初のひと月の契約を無事に満了した、その日の夜はどうだろう」
「はい! その日でしたら、心置きなくゆっくりできそうです」
力強く頷いてから、私は茶目っ気を込めて付け足した。
「……ただし、あの甘すぎる蜂蜜タルトは、最初から公爵様にお任せいたしますね」
「一口も食べないか?」
「一口だけなら、味見させていただくかもしれません」
あの濃厚すぎる甘さは、今でも鮮明に覚えている。
けれど、あの香ばしい木の実の歯ごたえを、もう一度くらいなら味わってみたいような気もしていたのだ。
アルヴィン様が声を立てて笑い、私もつられて笑ってしまった。
◇
部屋へ戻り、泥のついた外套を脱いでハンガーへ掛けたあとも、私はしばらく衣装棚の前に立ち尽くしていた。
棚の奥に、薄青色の外出着が一着だけ掛かっている。
王都から持ってきた数少ない私服で、袖口のほつれは先日綺麗に繕い終えていた。町のお店へ夕食をいただきに行くだけなら、この一着で失礼には当たらないだろうか。
取り出してベッドの上に広げ、ランプの明かりにかざして入念に確かめる。
目立つシミや汚れはない。襟元も擦り切れていない。
けれど――それだけを確認して、満足して棚へ戻す気にはどうしてもなれなかった。
この袖口に、細い白いレースのリボンをあしらってみたらどうだろう。
そうすれば、少しは華やかになって――公爵様にも、似合っていると思っていただけるだろうか。
そこまで考えて、私はカッと頬が熱くなるのを感じて、服を膝の上へ抱え込んだ。
誰かに似合うと思われたいなんて、いつ以来だろう。
買うなら、派手すぎない、繊細で細いリボンをほんの少しだけ。あまり華美に飾り立てすぎると、食事の最中に気になって袖ばかり触ってしまいそうだった。
私は袖口を指で軽くつまみ、鏡の前へ持っていった。
リボンなどなくても、護衛の仕事には何の支障もない。今までなら、その一言で買い物の候補から外していたはずだった。父への仕送りもあるし、まだ使える服にお金をかけるのは、少しだけ勇気がいる。
けれど、鏡の中で服を当てている私は、戦場へ向かうときとはまるで違う顔をしていた。
「……ほんの少しだけなら」
誰に許しを請うでもなく呟いてから、思わず一人で笑ってしまった。
こんな買い物の相談を、あの方にはまだできそうにない。似合うと思っていただきたい相手に、どう飾ればいいでしょうかと尋ねるなんて、それこそ何を口走ってしまうか分からなかった。
机の引き出しから紙とペンを取り出し、必要なリボンの長さを丁寧にメモする。
明日の決戦を乗り越えたら、次の非番の日に買いに行こう。
薄青い服を丁寧に畳み直し、いつでも一番に取り出しやすい特等席へと大切にしまい直した。
◇
腰の水筒の栓は、間違いなく固く閉まっていた。
それでも、もう一度だけ指先で確かめてから元の位置へ戻す。防寒用の外套の留め金も、靴紐の結び目も、出発前に鏡の前で何度も確認したはずなのに、どうしても気になって指が伸びてしまう。
「どこか緩んでいたか?」
隣に立つアルヴィン様に尋ねられ、私は小さく首を横に振った。
「いいえ。大丈夫です、しっかり締まっています」
私たちは、決戦の舞台となる岩場へ続く山道で待機していた。
岩場の先から巣の近くまでは、人が一人ずつ通れるほどの獣道になる。馬はここで後方の部隊へ預けていく。見晴らしの良い場所で、頭上にはどこまでも澄み渡る青空が広がっていたが、黒い影が飛んでいないことを確かめるために、私は何度も落ち着きなく顔を上げてしまっていた。
セドリック様が、息を切らせて戻ってきた伝令の騎士と短く言葉を交わす。
最後に広げた地図の上を指先で素早く辿り、こちらへ向き直った。
「街道および周辺の山道、すべての封鎖と部隊の配置が完了しました。作業員と近隣住民の退避も完了しています。黒翼竜は、依然として崖の巣に留まっているとのことです」
アルヴィン様が重々しく頷いた。
「よし。ここからは、事前の打ち合わせ通りに進める」
セドリック様が地図を静かに畳んだ。今日の戦いには、彼もついてこない。
岩場へ向けて歩き出した瞬間、背後で騎士たちが持ち場の最終確認を交わし合う引き締まった声が聞こえた。
それも、十歩ほど進むと、風の音にかき消されて聞こえなくなった。
やがて、アルヴィン様と私の足音だけが、砂利を踏み鳴らす音として響くようになった。
昨日の夕暮れ、私たちはこの同じ道を歩きながら、討伐が終わったら町へ食事に行こうと約束を交わしたのだ。無事に帰ったら、あの薄青い外出着を棚から出して、どこにリボンを縫い付けるか、もう一度確かめよう。
そう心に誓って隣を見上げると、アルヴィン様が私の歩調にぴたりと歩幅を合わせてくださっていた。
「何か気になることでもあるか」
「いいえ。行きましょう、公爵様」
帰るときにも、必ず二人で、並んでこの道を歩いて帰りたかった。
◇
迎撃用の岩場を抜け、断崖の巣を見渡せる岩陰まで辿り着くと、アルヴィン様が静かに片手を上げた。
私は足を止め、身を低くして巨大な岩の割れ目からそっと前方を覗き込んだ。
巨大な黒い塊が、向こうの岩棚を埋め尽くすように横たわっていた。
初めは、どこが頭でどこが胴体なのか判別がつかなかった。折り畳まれた分厚い翼と筋骨隆々たる巨体が複雑に重なり合い、その端から、大木のような太い尾が岩肌に沿ってだらりと垂れ下がっている。
その巨躯が、不意にゆっくりと持ち上がった。
――大きい。
王都の過去の討伐記録には、成体の体長や翼開長が正確な数値として記されていた。毎日の訓練でも、その数値を測り取って的のロープを張っていた。
けれど、紙の上の数字を読んで「ここからここまでが竜の大きさです」と頭で理解するのと、今まさに目の前の空間を生々しい圧倒的な質量で埋め尽くしている本物の怪物を直視するのとでは、天と地ほどの隔絶があった。
逃げ惑う獣を一撃で屠るという鋭利な前脚の鉤爪が、今は獲物を探すように硬い岩肌を無造作に削り取っている。
あれが、こちらへ来るのだ。




