第19話 背中を預ける人
黒翼竜の巨大な鉤爪が、頭上の結界に激突した。
ギギギィィィッ、と金属が軋み合うような凄まじい衝撃音が大気を震わせ、薄青い光の膜の向こう側で、黒い爪の先端が強烈に押し留められる。
続いてもう片方の前脚が振り下ろされ、二人を包み込む光のドームが、重みに押され、内側へ深くたわんだ。
私は奥歯が砕けるほど噛み締め、両足の靴底を岩盤へめり込ませるように踏ん張った。
広げない。
絶対に、二人分の幅から広げてはいけない。
たわむ光のすぐ向こうで、竜の前脚の筋肉が引き絞られるのが見えた。
巨躯がわずかに沈み込み、風を孕んで大きく開かれた漆黒の両翼の狭間――無防備な胸元が、私の右肩のすぐ横の射線と、完全に重なり合った。
――そこだ。
背後で、アルヴィン様が鋭く息を吐き出した。
私の右耳をかすめるようにして解き放たれた不可視の風の刃が、結界の光を滑らかに通り抜け、竜の胸元の白い鱗へと深々と突き刺さった。
鉤爪はいまだ結界を押し潰そうと猛烈な圧力をかけていたが、私の背後からアルヴィン様が後退する足音は一切聞こえなかった。
まったく同じ急所へ、間髪入れずに放たれる追撃の第二撃。
ギャァァァッ――!!
胸元の傷の奥深くへ、刃が突き抜けた。
竜が天を仰いで狂乱の絶叫を上げ、結界を掴み砕こうとしていた両前脚の鉤爪が、ズルリと光の表面を滑り落ちる。
頭上を圧迫していた絶望的な重みが、一瞬にして消え去った。
突き上げていた両手を思わず下ろしかけて、私はハッと我に返って踏み止まった。
まだだ。まだ、完全に終わってはいない。
「左へ跳べ!」
背後からのアルヴィン様の怒号と同時に、私は全力を振り絞って左側へ体を躍らせた。
絶命した竜の巨大な片翼が岩壁に激突し、巨躯が横倒しになって地面へ墜落する。
ズズウゥゥンッ、と大地が激しく揺れ、砕け散った無数の岩石が、散弾のように私たちの結界へバチバチと叩きつけられた。
へし折れて崩れ落ちてきた巨大な翼の先端だけでも、私たち二人を完全に押し潰せるほどの大きさがあった。
私は降り注ぐ瓦礫と折れた翼を結界で受け止めたまま、必死に足元の安全を確認した。
右側は崩れた岩石で完全に塞がれている。けれど左側なら、まだ安全に抜け出せる隙間が残っていた。
「そのまま、あと二歩左へ下がってください!」
叫ぶと、アルヴィン様が私の背後の定位置を崩さずに素早く回り込んだ。
飛び散る破片を結界の表面で弾き飛ばしながら、二人で慎重に倒れ伏した竜の巨体から距離を取る。太い尾が痙攣するように一度だけ岩肌を激しく叩き――その切っ先が完全に脱力して動かなくなるまで、私は両手を高く掲げ続けた。
やがて、パラパラと小石が落ちる乾いた音だけが、静まり返った岩場に響くようになった。
黒翼竜は、もうピクリとも動かなかった。
あれほど広大に青空を覆い隠していた漆黒の翼が、無残に折り重なったまま、砕けた岩の上に横たわっている。
「……そこの低い岩まで移れるか。頭と胸元を確かめたい」
私は頷き、先に岩へ上がった。アルヴィン様もすぐ後ろへ続く。
光の内側から、動かなくなった竜の頭部と、風の刃で裂かれた胸元を見下ろした。アルヴィン様は胸郭が呼吸によって上下していないことを、時間をかけて慎重に見極めていた。
私もその間、爪の先や尾の先端から目を離すことができなかった。足元の小さな石が風で転がるたびに、竜が再び息を吹き返したのではないかと心臓が跳ね上がってしまう。
やがて、アルヴィン様が私の肩越しに頷かれた。
「完全に絶命している。もう大丈夫だ」
私は巨大な竜の死骸をもう一度見つめた。
続いてその周囲の岩壁と、二人が立っている足元をくまなく見回す。頭上から崩れ落ちてきそうな巨岩も、こちらへ倒れ込んでくる危険物も何一つない。
そこまで確かめてから、二人で岩を下りた。私はようやく両腕を下ろし、結界の光を消し去った。
◇
薄青い光の膜がふっと空気に溶けて消えると、目の前に立つアルヴィン様の顔が、驚くほど鮮明に見えた。
整った頬には黒い煤が筋になってこびりつき、上着の襟元にも、サラリとした黒髪にも、白っぽい灰が降り積もっている。
私がまじまじと彼の顔を見つめていると、彼もまた私の顔をじっと見つめたまま、右手の革手袋をゆっくりと外した。
素肌の指先が私の頬へ向けてそっと伸ばされ――触れる直前のところで、躊躇するようにピタリと止まった。
「公爵様、お怪我はありませんか」
「リゼット、怪我はないか」
互いの怪我を尋ねる声が、ぴたりと重なり合った。
私は彼からの返答を待って口を噤み、アルヴィン様もまた、言葉を失ったように私を見つめ返していた。
「……私は、どこも怪我はありません」
私が先に答えると、アルヴィン様は肺の中の空気をすべて吐き出すように、深いため息をつかれた。
「私もだ。かすり傷一つない」
そう言われても信じられず、私は彼の左腕をまじまじと見つめた。
袖口は裂けていない。新たな血の滲みもどこにもない。
竜が襲いかかってきた極限の瞬間、アルヴィン様は私の後ろに留まり続けてくださった。
私が結界で爪を受け止めている間に、同じ急所へ二度、刃を叩き込んでくださったのだ。
彼の無事を確かめた途端、膝から力が抜けて崩れ落ちそうになった。
アルヴィン様が素早く両腕を差し出して支えてくださる。私はその逞しい腕にすがりつき、辛うじて膝を持ち直した。もう立てる。立っていられるはずだ。けれど――どうしても、この腕から離れることができなかった。
「リゼット?」
私は両手で、アルヴィン様の上着の胸元をぎゅっと掴んだ。
彼を引き戻すためではない。私より前に出ないでくださいと、悲痛に懇願するためでもない。
「……少しだけ、このままでいさせてください」
自分から小さく一歩踏み込み、掴んだ上着の胸元へ、額をそっと押し当てた。
次の瞬間、私の背中に、力強い両腕がしっかりと回された。
アルヴィン様は何も言わず、ただ静かに、私を抱きしめてくださった。
頬に触れる上着の布地は少し硬く、焼けた木や草の匂いがした。きっと私自身の外套からもまったく同じ匂いが漂っているはずだったが、今はそんなこと、どうでもよかった。
生きている。
二人とも、無傷で、ここに立っている。
私は彼の胸元に額を預けたまま、ようやく肺の奥から長く、深い息を吐き出した。
私の背中に回されたアルヴィン様の腕に、さらにぎゅっと力が込められる。
私たちはしばらくの間、言葉もなくそのままでいた。
静寂の中で、ようやく私は猛烈な喉の渇きを思い出した。さっきまで、あんなにも冷たい水筒の水を欲していたことすら、完全に忘れていたのだ。
「……あの、お水を……飲みたいです」
胸元に顔を埋めたまま小さく呟くと、背中の腕が名残惜しそうに緩んだ。
けれどアルヴィン様はすぐに体を離そうとはせず、私が一人でふらつかずに立てることをしっかりと確かめてから、静かに背中の手を下ろしてくださった。
私は腰から自分の水筒を取り外した。
極度の緊張で震えていた指先では栓がうまく回らず、そこだけはアルヴィン様に手伝っていただいた。
水を飲んでいる間、アルヴィン様はご自分の手袋を見つめておられた。
「王都へ出す報告には、私と君、二人の名を記してもらう」
私は水筒から顔を上げた。
あの、討伐数が零だと言われて去った王都へ。竜を倒した公爵様の名の隣に、私の名前も届くのだ。




