第11話 もう少し、ここにいてください
止めようと力を込めれば込めるほど、指先の震えはひどくなった。慌てて左手を添えて押さえ込もうとしたけれど、左手も同じようにガタガタと震えて止まらない。
アルヴィン様は何も言わず、私の手からカップをそっと引き取り、机の上へ静かに戻してくださった。
「……ここに置いておこう」
私は恥ずかしさと情けなさで、両手を膝の上へ引っ込めた。
さっきまで綺麗に揃えていられたはずの指先が、今はどう重ねても震えが止まらない。
アルヴィン様は机の向かい側の上座には座らず、私のすぐ隣にあった椅子を引き、そこへ腰を下ろされた。
ご自分のカップを手に取り、静かに一口お茶を含まれる。
何か、いつも通りに冷静な報告をしなければと思った。けれど、唇が引き攣って、うまく言葉の形を結んでくれない。
「あの……大きな石が落ちてきたときは……少しだけ、怖かったです」
絞り出すように口からこぼれ落ちたのは、報告のつもりで用意していた言葉とは、まるで違う本音だった。
アルヴィン様は机の上のカップを見つめたまま、静かに口を開いた。
「見ていた」
短く重い言葉のあと、室内にわずかな沈黙が流れた。
「君たちがこちらへ歩いてくる間も、頭上からは絶え間なく石が落ち続けていた」
「……はい」
私は膝の上の、震える自分の指先を見つめた。
あの巨大な岩を弾き飛ばした瞬間、これで助かったと思いたかった。けれど現実は、そのあとも無数の小石が結界を叩き続けていた。岩陰に滑り込む最後の一歩まで、ずっと。
本当に、怖かった。
無事に防ぎ切ったのだから、誰も死ななかったのだから、もう終わったことなのに。
「お待たせして……」
申し訳ありませんでした、と続けようとした。
けれど、あの場所で「道を拓いて待っていてください」と頼んだのは、ほかならぬ私自身だった。怪我人を焦らせて転倒させずに済んだのも、アルヴィン様が完璧に道を切り拓いて待っていてくださると、心から信じられたからだ。
私は唇をぎゅっと引き結び、詰めていた息を吐き出した。
「……明日の午前中、少しだけお休みをいただいてもよろしいでしょうか」
アルヴィン様が、まっすぐにこちらを向かれた。
「ああ。明朝の現場確認はセドリックに任せよう。君は好きなだけ眠るといい」
その言葉を聞いた瞬間、強張っていた肩の筋肉から、すうっと余分な力が抜けていくのが分かった。
それでも指先の震えは完全には収まらなかったので、私はカップに手を伸ばすのを諦めた。
アルヴィン様は席を立とうとせず、ただ静かに隣に座り続けてくださっていた。
私はおそるおそる横を向いた。アルヴィン様が優しく視線を返してくださったので、私は震える指先を伸ばし、彼の上着の袖の端を、そっと摘むように掴んだ。
「……もう少しだけ、ここにいてくださいますか」
「いる。急ぎの執務はすべて片付けてきた」
侍女を呼ぶのではなく、他の騎士を呼ぶのでもなく、ただこの方にそばにいてほしかった。そう素直にお願いできた瞬間、袖を掴んでいた指先から、張り詰めていた強張りが少しずつほどけていった。
しばらくして、私は彼の上着からゆっくりと手を離し、自分の指を一本ずつ確かめるように開いてみた。
右手でカップの取っ手を持ち、左手をそっと受け皿に添える。
今度は――カチリとも音が鳴らなかった。
お茶はすっかり冷めかけていたけれど、ようやく喉を通った。かすかに、花の香りがする。
一口飲んで、ゆっくりと息を吐く。そして、もう一口。
机の上には、アルヴィン様の飲みかけのカップが、私のカップと並んでいた。
◇
翌朝、私は一度、いつもの起床時刻に目を覚ました。
カーテンの隙間から差し込む光はまだ薄暗い。起き上がって討伐の支度をしなければ、と体を起こしかけ――今日は午前中のお休みをいただいていたのだと思い出し、掛け布団を鼻先まで引き上げて再び目を閉じた。
次に目を覚ましたときには、部屋の中は暖かな日差しで満たされていた。
こんな時間まで寝過ごしてしまった、と一瞬焦りかけたけれど、すぐにまた思い直す。
休みたいと自分からお願いし、公爵様が快く許してくださったのだ。誰にも気兼ねする必要はない。
遅い朝食として運んでもらった紅茶のカップは、両手で包み込むように持てば、もう微塵も震えなかった。
ただ、廊下の向こうで使用人が何かを落とした甲高い物音には、ほんの少しだけ肩がビクッと跳ねてしまったけれど。
その翌日、山側の深部を調査していた専門の偵察隊が、緊迫した表情で帰還した。
旧街道が通る山の中腹、人が容易に近づけない断崖絶壁の上に、大型の魔獣――黒翼竜が巣を作っているという。
竜が炎を吐いて獲物を追う姿も、確認されたという。木々の焼け焦げも、獣たちが一斉に麓へ逃げていたことも、それなら辻褄が合う。
報告を受けたアルヴィン様は、直ちに山へ通じるすべての街道と作業道の即時封鎖を命じた。続いて、王都騎士団本部へ至急の早馬を走らせる。過去に王都周辺で黒翼竜を討伐した際の詳細な戦闘記録の開示と、必要に応じた物資の支援を要請するためだった。
私は使者に託す公文書の束を整えながら、封筒の宛名に記された文字をじっと見つめた。
王都騎士団。
あの場所を去ってから、まだ一か月も経っていない。
その組織の名が書かれた封筒に、自分が公爵家の側から封蝋を押すことになるなんて、夢にも思わなかった。
◇
王都からの返答は数日後、ひどく見覚えのある人物によってもたらされた。
「……本当にここにいたんだな、エルン」
公爵邸の玄関ホールでその声を聞いた瞬間、私は抱えていた書類の束を思わず強く抱き直した。
かつて私の隊長だった、バルト様だ。
王都で毎日のように目にしていた部隊長用の青い上着を身にまとい、片手に使い込まれた革の書類鞄を提げている。
「ご無沙汰しております、バルト様。記録をお届けくださったのですね」
「ああ。公爵家からの要請書に、専属護衛としてお前の名前があったからな。支援要請への回答を届ける連絡役が必要だったので、俺が志願して引き受けた」
公爵様がお待ちの会議室へご案内しますとお伝えすると、バルト様は短く頷いた。
私は先頭に立って屋敷の廊下を進んだ。
背後から響いてくる規則正しい革靴の音に、無意識のうちに歩調を速めそうになる。王都にいた頃は、隊長に呼ばれたら一秒でも早く駆けつけるのが染み付いた習慣だった。
けれど今は、私は叱責されるために呼ばれたわけではないのだ。
会議室では、アルヴィン様とセドリック様、そして偵察を指揮した騎士が地図を広げて待っていた。
形式通りの挨拶を終えたバルト様は、鞄を卓上に置き、まず王都騎士団からの公式な通達として、現在の戦力不足により即座の騎士の増員派遣は困難である旨を伝えた。ただし、対竜用の特殊物資の融通については前向きな回答があり、セドリック様が目録を受け取る。
「……本題の支援物資の件とは別に、エルンの今後の処遇について、本人を交えて確認しておきたい儀がございます」
不意に自分の名前が上がり、私は勧められた席へ腰を下ろしかけた姿勢のまま凍りついた。
アルヴィン様が、静かに私へ視線を向けられた。
その穏やかな眼差しに促され、私はひとまず姿勢を正して椅子に座った。
「先ほど契約期間を確認させてもらったが、公爵家とはまず一か月間だそうだな。……契約満了後、王都騎士団へ復帰する気はないか、エルン」




