第10話 守り切ったはずなのに
顔を上げた男性作業員に、足を痛めた仲間を指し示した。
「あの方の腰を、後ろからしっかり支えていただけますか! 上からの落石は私がすべて防ぎます!」
「す、すまない……っ!」
男性は、置いてきた測量道具を一度だけ振り返ってから、怪我人の背後へ回った。
高価な備品なのだろう。けれど、拾いに戻っていただくわけにはいかない。私は男性の背中まで結界に収まっていることを確かめた。
私が先頭に立ち、四人にも少しずつ歩調を合わせて向きを変えてもらう。横から激しく打ちつけてくる土砂と小石を受け止めながら、全員が私より後ろに収まるまで、光の幅を限界まで保ち続ける。
両肩を抱えられた怪我人の背後に、道具を諦めた男性が入り、腰をしっかり両手で抱え上げた。浮かせた右足が地面に擦れずに済む体勢が整う。
「足元だけを見て、ゆっくり進んでください! 絶対に私を追い越さないで!」
怪我をした男性が、苦痛に唇を噛みながら強く頷いた。
早く安全な場所へ逃げ出したいのは山々だけれど、焦って誰かが泥に足を取られて転倒したら、支えている仲間まで巻き込んで、結界の外へ倒れかねない。
私は二歩進み、足を止めた。
背後の足音が揃ってついてくるのを待って、また二歩。
降り注ぐ石は、最初の崩落に比べれば粒が小さい。
けれど、雨あられのように絶え間なく降り注いでくる。結界の光の表面をゴロゴロと滑り落ちるたびに、背後の誰かが恐怖で首を竦めた。
「大丈夫、石は防いでいます! 上を見なくていいですから、足元を確かめて進んでください!」
叫ぶと、背後の乱れかけていた足音がわずかに持ち直した。
本当は、私自身だって恐怖で首を竦め、耳を塞いで蹲ってしまいたい。けれど、私が縮こまったところで結界の強度が上がるわけではないのだから、奥歯を噛み締めて前だけを睨み据えた。
曲がり角の手前、巨大な倒木があった場所に、アルヴィン様の姿が見えた。
太い幹はすでに幾重にも輪切りにされ、騎士たちが総出で枝ごと道の外側へ引きずり出しているところだった。大人が肩を並べて通れる幅が、すでにぽっかりと切り拓かれている。
「道は開いた! 担架も用意してある!」
アルヴィン様の鋭い声が届いた。
私は力強く頷き、その先の岩棚へ目を向けた。
切り開かれた道の先には張り出した強固な岩盤があり、そこまで行けば落石の直撃は届かない。二人の騎士が広げた担架を手に、その岩陰で待ち構えてくれていた。
あと少し。あと十歩。
「皆さん、あの岩陰までです! あと少しだけ頑張ってください!」
深く息を吸い直す。
大人五人分の結界を維持しながら、泥に足を取られないよう慎重に歩く。訓練でも試した広さだ。維持できない範囲ではない。
けれど、あまりにも長かった。
次の一歩を背後の怪我人に合わせて待つ時間が、永遠のように長く感じられた。
不意に、背後で短い苦鳴が漏れた。
作業員たちの足音がピタリと止まる。
「す、すまねえ、手が滑った……! 少しだけ待ってくれ!」
私は即座に足を止め、結界の光へ全身の魔力を注ぎ足した。
怪我人を支える腕を組み直しているらしい。すぐに歩き出せるはずだ。それまでは、ここを一歩も動かない。
――ピキリ、と頭上の崖の上で、太い木の根が弾け飛ぶ不吉な音がした。
ハッと見上げると、剥き出しになった赤土の裂け目から、信じられないほど巨大な岩塊が滑り落ちてくるところだった。
先ほどまでの小石とは次元が違う。大人が体を丸めたよりも遥かに巨大な、文字通りの巨岩。
落ちてくる。直撃する。
私は両足を大きく泥に踏ん張り、結界の膜を頭上に集中させた。
背後で誰かが息を呑む気配がした。逃げ出そうとしていないか、結界の外へ飛び出そうとしていないか、振り返って確かめたかった。けれど、もう目の前まで迫った巨岩から一瞬たりとも目を離すことはできなかった。
ドゴォォォンッ――!!
耳元で落雷が落ちたような、凄まじい衝撃音が鼓膜を震わせた。
薄青い結界の表面が、巨岩の重みに押されて深く波打つ。
割れていない。まだ、保っている。
私は歯が砕けるほど奥歯を噛み締め、両腕を天へ突き上げたまま、巨岩が結界の傾斜を滑り落ちていく軌道を睨み続けた。
巨岩は光の壁を滑り、誰もいない街道脇の窪地へと転がり落ち、大量の泥水を跳ね上げてズズンと音を立てて静止した。
「……歩けますか」
自分でも驚くほど、喉から掠れた細い声しか出なかった。
「歩ける……! 行けるぞ、もう少しだ!」
背後からの力強い返事に頷き、私は再び一歩を踏み出した。
新しい靴底が、泥の下の硬い石畳をしっかりと捉えた。滑らない。絶対に滑らない。確信を持って、次の一歩を踏み抜く。
切り開かれた倒木の隙間を抜け、張り出した岩棚の陰へ滑り込んだ瞬間、アルヴィン様が私の横を風のようにすり抜けて作業員たちへ駆け寄った。
泥の上に担架が素早く敷かれ、騎士たちが手慣れた動作で怪我人を抱き上げ、静かに横たえさせる。
私は前を向いたまま、背後へ大きく広げていた結界の膜を、どうしても解くことができずに立ち尽くしていた。
「リゼット殿、最後の一人も完全に退避しました」
セドリック様の静かな声が耳に届いた。
恐る恐る振り返ると、作業員四人の姿が、全員無事に岩棚の奥に揃っていた。
それを自分の目で確かめて、ようやく――私は持ち上げていた両手を、だらりと下ろした。
◇
帰路は、怪我人と作業員たちを護送用の幌付き荷馬車に乗せた。
足を痛めた男性の付き添いを手配し、崩落した街道の区間には一般人が立ち入らないよう厳重な封鎖線と見張りを配置する。セドリック様の指示のもと、騎士たちが迅速に動いていた。
「リゼット殿、あなたも馬車へお乗りください」
後ろの幌を上げていただき、私は促されるまま荷台へ上がった。空けてもらった長椅子へ、深く腰を下ろす。
隣では、測量機器を置いてきた男性作業員が、泥だらけの両手で自分の膝をしきりに擦っていた。
「あの道具……あとで回収に行けるだろうか」
「斜面の崩落が完全に落ち着いて、安全が確認されてからになると思います」
「そうだよな……命があっただけでも儲けもんか」
それきり、車内の会話は途切れた。
馬車の車輪が街道の小石を踏んでガタツと小さく揺れた瞬間、私は無意識に座席の縁を指が白くなるほど強く掴んでいた。
何でもない、ただの馬車の揺れだ。さっきの落石ではない。
分かっているのに心臓の早鐘が止まらず、私は幌の隙間から外を見つめ、馬車に寄り添うように馬を走らせているアルヴィン様の姿を、すがるように目で追い続けた。
公爵邸に戻ると、作業員たちは直ちに待機していた医師の手当てを受けるために運ばれていった。
私も侍女たちに怪我がないことを入念に確認してもらい、泥水と土煙にまみれた外套を脱いだ。洗面台の水で顔と手を洗うと、手ぬぐいが真っ黒になるほど汚れていたことに初めて気づいた。
事後報告のために通された執務室で、私は勧められた革張りの椅子へ深く腰を下ろした。
膝の上に揃えて置いた両手は、見た目には静かに落ち着いているように見えた。
アルヴィン様が部屋に戻ってこられたときには、机の上に湯気を立てる温かいハーブティーが用意されていた。
「作業員の足は、幸い骨折まではしていなかったそうだ。酷い捻挫と打撲で済んだ。しばらく療養させれば問題なく歩けるようになる」
私は大きく安堵の息をつき、何度も頷いた。
あまりに痛そうに顔を歪めていたので、骨が砕けてしまっているのではないかとずっと気が気でならなかったのだ。
アルヴィン様が、机の上の温かいティーカップを私の方へそっと差し出してくださった。
お礼を言って受け取ろうと、右手を伸ばす。
指先がカップの取っ手に触れた、その瞬間――。
カチ、カチ、と小刻みな乾いた音が静かな室内に響いた。
陶器のカップが、受け皿に当たって細かく震えている。
私の手が、信じられないほど激しく震えていた。




