第12話 戻るつもりはありません
バルト様の声のトーンは、王都の執務室にいた頃とまったく変わらなかった。
明日の出動予定を淡々と申し渡すときのような、事務的な声音。けれど、彼が口にしているのは、私に対する異例の復帰要請だった。
「お前が抜けた穴の、後任の盾役がまだ決まっていない。戻るなら、以前と同じ給金と待遇を即座に保証する」
「……後任には、私と違って強力な攻撃魔法が使える方を補充されたのではなかったのですか」
「攻撃魔法の使い手は入れた」
バルト様が書類鞄の留め金に指をかけた。
開けるのかと思ったが、指先を離し、まっすぐに私を見据えた。
「討伐数自体は伸びている。だが――防壁が薄くなったせいで、前衛の負傷者が激増した。怪我で前線を離脱する者が後を絶たず、次の出動に必要な頭数がまるで揃わんのだ」
誰が怪我をしたのだろう。
かつての同僚たちの顔が何人も脳裏に浮かび、思わず怪我人の名を尋ねると、バルト様は何人かの馴染みのある名前を挙げた。命に関わるような重傷者はいないが、腕や足の傷が塞がらず、何週間も実戦から遠ざかっているのだと聞いて、私は胸を撫で下ろすと同時に、複雑な感情に襲われた。
「部隊の配置を再編してはいるが、やはりお前のように勝手知ったる盾役がいた方が立て直しが早い。戻るなら、今後は後方の防御や救援の実績も、査定の対象として正当に評価してやる」
今度は。
私は卓の端に置いていた両手を、静かに膝の上へ引き戻した。
以前だって、私は同じように必死で守っていたのだ。
雨の泥濘の中で三人を担架が来るまで守り抜いた日も、その前の数々の討伐でも。バルト様の部隊に配属されていた間、私は一日たりとも手を抜いたことなどなかった。
あのとき、その言葉をかけてくれていたなら、と思った。今さらそんな詮無いことを考えても仕方がないと頭では分かっていても、どうしても胸の奥から苦い怒りが込み上げてくるのを止められなかった。
「給金の額は、以前とまったく同じなのですね」
「ああ。身分も階級も以前のまま復帰させる」
公爵家からいただいている給金は、そのちょうど倍である。
しかも部屋代も食事代も一切引かれないから、実家の父へ仕送りできる金額は三倍以上にもなる。
それは生きていく上で、とても大切なことだ。大切なことだから、条件は最後まで冷静に聞いた。
「私の契約が終わるまでの間、皆さんはどうなさるのですか」
尋ねると、バルト様は一瞬だけ口を閉ざした。私の契約が終わるのを待つ間にも、王都の討伐は続いていく。あの人たちが傷を治すための時間は、私がここで返事をしただけでは生まれない。
「出動する部隊を組み替える。医師から許可が出ていない者は使わん」
「……それでしたら、どうか、そのようにお願いいたします」
顔の浮かぶ人たちを、もう一度守りたいという気持ちはあった。けれど、心配だからという理由だけで戻れば、また同じように無理を引き受けてしまう気がした。今の契約が終わったあとも、私はこの場所で働きたい。
膝の上の指を一本だけ伸ばし、強く握りすぎていたことに気づく。
隣のアルヴィン様は、私に代わって断ろうとはなさらなかった。その沈黙に甘えて助けを求めたくなったけれど、これは私が自分の言葉で答えるべきことだった。公爵様の命令だから戻れません、なんて理由にはしたくなかった。
けれど――もし王都騎士団が、公爵家と同じ倍額の給金を提示してきたとしても、私は王都へ戻りたいと思うだろうか。
あの日報の余白に、ユアンさんとマルクさんの名前を書いたときのことを思い出した。
討伐の反省に夢中になって、夕食のシチューを冷ましてしまったこと。
あの午後、落石の恐怖で震えが止まらなくなって、「明日の午前は休みたい」と自分から甘えることができたこと。
この場所でだって、命が縮むほど怖い思いはするし、泥だらけになって疲れ果てることもある。あの巨大な落石を、もう一度受け止めたいなんて微塵も思わない。
それでも――次に命を預け合い、配置を相談したい相手は、間違いなくこの屋敷の人たちだった。
「お心遣いは大変ありがたいのですが、王都へ戻る意志は一切ございません」
バルト様が、信じられないものを見るように眉をひそめた。
「一か月の契約満了のあとの行き先が決まっているのか? また路頭に迷うことになるぞ」
「まだ、先の契約は結んでおりません」
隣に座っておられるアルヴィン様の表情を確かめたくなった。この先も残りたいと申し上げて、困惑した顔をされたらどうしようという不安がよぎる。
けれど、ここで怯んで口籠もってしまっては、自分の意志すら示せない。
「私は、この場所で、アルヴィン閣下の護衛を全うしたいと思っております」
言い切ってから、膝の上でぎゅっと握りしめていた拳をゆっくりと開いた。
バルト様は何か言いかけ、視線を私の隣――アルヴィン様へと移した。
アルヴィン様は、私が返答を終えるまで、口を挟まずに待っていてくださった。
「……本人の意志は確認できた。では、黒翼竜の討伐記録を拝見しよう。こちらの偵察記録と照合したい」
アルヴィン様の静かだが絶対的な威厳を湛えた声に、バルト様はそれ以上何も言えず、書類鞄を開いた。
丁寧に綴じられた過去の戦闘記録が、卓上の中央に置かれる。
私は膝から手を上げ、セドリック様から手渡された周辺地図を素早く広げた。
◇
過去の記録に描かれていた黒翼竜のスケッチには、翼を閉じた状態と、大きく広げた状態の二種類の姿が克明に描かれていた。
翼を大きく広げた方の腹部のスケッチ、その胸の中央に、赤い塗料で丸い印がつけられている。
「胴体の鱗は極めて硬い。風や刃の魔法であっても、側面からでは致命傷を与えることは不可能だ」
バルト様が頁をめくりながら解説を加える。
「竜が獲物を捕食するために急降下し、地上すれすれで減速する際、巨大な翼を広げて前脚の鉤爪を突き出す。この姿勢を取った瞬間に限り、胸元の薄い鱗が剥き出しになる。ここが唯一の急所だ」
偵察隊の騎士が力強く頷いた。
今回の個体も、斜面を逃げ惑う野生動物を捕獲する際、まったく同じ姿勢で急降下していたという。
「上空を旋回している間は、胸の薄い部分が隠れているのですね」
私が確認すると、バルト様はスケッチの鋭い爪を指先で叩いた。
「そうだ。胸を狙える瞬間というのは、同時に、あの巨大な爪が頭上から襲いかかってくる瞬間でもある。しかも降下する直前、奴は広範囲を焼き尽くす高熱の火炎を吐き出す。過去の討伐隊でも、炎の熱量に耐えかねて盾役が何人も下がった」
炎を完全に防ぎ切り、それでも逃げずにその場に踏み止まり、巨大な爪が届く間合いまで引きつけて――胸を撃ち抜く。
私は赤い急所の印を見つめながら、あの巨岩が結界に激突したときの、凄まじい衝撃を思い出していた。
今度は、逃げ場のないあの立ち位置に、自らの意志で立つことになるのだ。




