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第四章 成長 第六十六話 待ち人桜

第四章 成長 第一六十六話 待ち人桜


山あいの静かな村には、一本の大きな桜の古木が立っている。その枝ぶりは力強く、春になれば見事な薄紅色の花を咲かせるが、それ以外の季節はどこか寂しげに、ただ黙々と空を仰いでいた。村人たちはその木を「待ち人桜」と呼び、子供たちには「むやみに近づいてはいけない」と伝えてきた。なぜなら、その木の下には、もう五十年のあいだ、ひとりの老婆が座り続けているからである。


彼女の名はサキという。かつて、村一番の美しさと優しさで知られた女性だった。五十年前の春、彼女の夫・健一は召集令状を受け取った。赤紙を手にしたその日、健一は桜の木の下でサキの肩を抱き、こう言ったのだ。


「必ず帰ってくる。戦地でどんなに辛い夜があっても、この桜を見ればお前を思い出せる。だから、桜が咲く頃にはここで待っていてくれ」


それが、健一の最後の言葉だった。彼は遠い異国の地で命を落とし、その遺骨すら村には戻らなかった。


戦争は終わり、日本は復興を遂げた。しかし、サキの季節は五十年前の春で止まったままだった。夫は帰らなかった。しかし、サキは狂ったように桜の季節を待ち続けた。村人たちは皆、彼女を哀れんだ。「あのお方は、まだ現実を受け入れられないのだ」と。やがてサキは年老い、記憶の大部分を失った。近所の人の顔も、自分の名前さえも忘れてしまった。しかし、ただ一つ、夫との約束だけは、彼女の心の奥深くに鋭く突き刺さったまま、決して消えることはなかった。


季節が巡るたびに、彼女は桜の木の下へ向かう。記憶が混濁し、自分が誰であるかも曖昧になっても、その場所を通る人影を見るたびに、彼女は涙を流しながら精一杯の笑顔でこう言うのだ。


「お帰りなさい。……待っていましたよ」


その日、村には不思議な空気が流れていた。雲の切れ間から差し込む陽光が、どこか別世界の輝きを帯びているような、静寂に満ちた午後だった。陰陽師として名高い神代レイカと、その息子である蒼也は、村に伝わる古い呪術の痕跡を調べるためにこの地を訪れていた。厳しい修行を積むレイカは、数々の怪異を鎮めてきた冷徹な眼差しを持っていたが、その息子である蒼也は、まだ少年の面影を色濃く残し、誰に対しても分け隔てない優しさを持っていた。慣れない山道に息を切らし、蒼也がふうと一息ついた、そのときのことだった。


木陰から、よろよろと老婆が立ち上がった。サキだった。彼女は蒼也の腕を強く掴んだ。その手は細く、しかし驚くほど力強かった。彼女の瞳は濁っているはずなのに、今はまるで遠い日の光を宿しているかのように、真っ直ぐに蒼也を見つめていた。


「あ……私の愛しい人よ……やっと、帰ってきてくれたんだね」


蒼也は驚き、どう対応すべきか戸惑って立ち尽くした。自分は夫ではない。ましてや、五十年前の人間でもない。否定しなければ、そう思った。しかし、老婆の瞳から溢れ出る深い愛と、孤独に耐え抜いてきた五十年の重みが、蒼也の喉を締め付けた。


レイカは静かに足を止め、その光景をじっと見つめていた。彼女は霊的な視界で、サキの周囲に漂う「想い」の残滓を見ていた。それは怨念のような呪いなどではなく、あまりに純粋で、あまりに悲しい、魂の灯火だった。サキの想いは、あまりに強く長く停滞していたため、現実と記憶の境界を曖昧にするほど強かった。


「おばあちゃん、僕は……」


蒼也がそう言いかけたとき、サキはくしゃりと顔を綻ばせた。それは、五十年前の少女が初恋の相手に見せるような、初々しく慈愛に満ちた表情だった。


「よかった……本当によかった。冷えたでしょう、苦しかったでしょう。もういいのよ、何も言わなくて。こうして会えただけで、私は……私はもう、幸せなんだから」


サキは蒼也の頬にそっと手を添えた。その瞬間、蒼也には幻影が見えた。若き日の健一の姿と、彼を待ち続けたサキの長く、孤独な夜。五十年間、彼女はただ桜を愛でていたのではない。自分を捨ててしまったかもしれない夫を恨むこともなく、ただ信じ、ただ待ち続け、自分の命をその想いだけで繋ぎ止めていたのだ。彼女にとっての五十年は、待つための準備期間であり、夫に「ただいま」と言ってもらうための聖なる時間だった。


蒼也は、自分の胸の中に熱いものが込み上げるのを感じた。否定の言葉は消え去った。彼はゆっくりと、彼女の細い手を握り返した。


「……ただいま。ずっと、遅くなってごめん」


蒼也がそう答えた瞬間、桜の木がふわりと音を立てた。季節外れの風が吹き抜け、花びらでもない、光の粒子のようなものが二人の周りを舞った。それは春の桜の記憶が、一斉に祝福として舞い落ちているようだった。


サキの表情が、驚くほど安らいだものに変わった。


「ああ……これで、やっと眠れるわ。桜の咲く季節も、もう怖くない」


サキは蒼也の腕の中で、糸が切れた人形のようにゆっくりと崩れ落ちた。しかし、その顔には、これ以上ないほどの幸福が浮かんでいた。彼女の魂は、五十年という長い待ちぼうけの末に、ようやく夫の元へと辿り着いたのだ。


その夜、村には珍しく、どこか遠くで祭り囃子の音が聞こえたような気がしたと、村人たちは後になって語り合った。それは、空の上で二人がようやく再会を喜んでいる音だったのかもしれない。


レイカは息子の背中に手を置き、静かに空を見上げた。


「蒼也、あなたは今日、人の一生を救ったのよ。愛というものは、形を変えても必ず報われる。それを証明したのは、あなたよ」


桜の木は、翌年も見事に花を咲かせた。しかし、その下で誰かを待つ人の姿は、もうどこにもない。


ただ、春の風が吹くたびに、桜の枝は優しく揺れる。まるで、ようやく再会を果たした二人が、寄り添って空を駆けていくかのように。


五十年という歳月は、決して失われた時間ではなかった。それは、愛という名の永遠を証明するための、長く、そして美しい旅路だったのだ。村人たちは桜を見るたびに、今はもういないサキの笑顔と、彼女が守り抜いた愛の尊さを、心に刻み続けている。その伝説は、今もこの静かな村で、春が来るたびに静かに、しかし力強く語り継がれているのである。

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