第四章 成長 第六十五話 値段
第四章 成長 第六十五話 値段
「一日、一万円。何日分になさいますか?」
新宿五丁目、路地裏の雑居ビル。その一室で、怪しげな雰囲気を纏った女は、無機質な声でそう告げた。男にとって、その提示された額が相場として安いのか高いのか、判断する術はなかった。ただ、目の前の女が放つ「人の命を金に換える」という言葉の響きだけが、どうしようもなく甘美に聞こえた。
男は、ギャンブルによる多額の借金を背負っていた。さらにキャバクラでの遊興が追い打ちをかけ、生活はすでに破綻の淵にあった。返済の督促に怯える日々。そんな男にとって、この取引は唯一残された出口のように思えた。
「……一年だ。一年分、頼む」
震える声でそう告げると、女は細い指で契約書を差し出した。後日、銀行口座を確認すると、確かに三六五万円が振り込まれていた。男は歓喜した。これほどまでに簡単に、渇望していた金が手に入るとは。男には妻と、まだ幼い娘がいる。家族には内緒で借金を完済し、男は束の間の幸福に酔いしれた。
だが、欲望というものは底なしだ。借金を返したことで余裕が生まれると、次はマイホームが欲しくなった。数ヶ月経ち、身の丈に合わない高級マンションのチラシを眺め、男は再びあの路地裏へ足を運んだ。
「今度は五千日分だ。五千万円、これでいいな」
男は鼻息荒く女に告げた。女は表情一つ変えず、淡々と契約を交わした。しかし、期待していた五千万円は振り込まれなかった。口座に印字されていたのは、わずか数万円という無慈悲な数字だった。
男は怒り狂って雑居ビルへ駆け込んだ。
「どういうことだ! 五千日分だぞ!」
女は冷ややかな目で男を見下ろした。
「最初の契約で、貴方の寿命の大半は売り渡されました。」
「貴方の残り寿命は、すでに残りわずかです。死ぬ間際の命に、それほどの価値はありませんよ」
その言葉は、まるで鋭利な刃物となって男の心臓を突き刺した。死んでしまっては、マイホームも家族との未来も、すべて無意味だ。子供の成長を見届けたかった。幸せな家庭を築きたかった。後悔が津波のように押し寄せる。
すがるような思いで、男はスマホを取り出した。震える指で検索したのは「陰陽師」。藁にもすがる思いで辿り着いたのは、「討魔庁」という組織だった。
「討魔庁、オペレーターセンターです。どうされましたか?」
受話器の向こうの女性の声に、男は泣きついた。怪しい女に騙され、寿命を吸い取られたのだと。助けてほしいと。必死に嘘を混ぜながら訴える男に、センターは調査員の派遣を約束した。
「ただし、除霊や結界の設置には、現場の確認が不可欠です。ご自宅へ伺います」
男は窮地に追い込まれた。自宅に調査員を入れれば、マイホームの実態や、自分がこの家を買うためにどれほど愚かな契約を重ねてきたかが、妻に露見してしまう。
「喫茶店にしてくれないか」
「いいえ、自宅でなければなりません。お客様の命に関わる問題ですので」
男は選択を迫られた。マイホームを差し出し、すべてを清算して寿命を取り戻すべきか。しかし、あの雑居ビルへ向かっても、そこにはすでに誰もいなかった。男は狂ったように新宿の街を走り回った。昼夜を問わず、女の姿を探し続けた。
そんなある日の夕暮れ、路地裏で二丁拳銃を腰に提げた女と、中学生ほどの少年が歩いているのを見かけた。男は藁にもすがる思いで二人に駆け寄った。
「頼む、命を金に換える女を見なかったか! 俺の寿命を返してほしいんだ!」
少年は足を止め、哀れむような目つきで男を見上げた。
「おじさん、探してどうするの?」
「お金を返して、寿命を返してもらうんだ! お願いだ、教えてくれ!」
男の必死の懇願に対し、少年は静かに、しかし残酷なほど明確に言い放った。
「……おじさん、もう遅いよ」
「何でだ! まだ間に合うはずだ!」
少年は、まるで死神が告げるような無機質なトーンで呟いた。
「だって、おじさん。……もう、死んでるもん」
その瞬間、男の視界が歪んだ。自分の体が、夕闇の中に溶けていくような感覚。あの女が言った「残りわずかな寿命」とは、物理的な残り時間のことではなく、男がすでにこの世の境界線を越えていたことを意味していたのだと、男は悟った。
新宿の雑踏の中、男の声は誰にも届かない。風が吹き抜け、男の輪郭が薄く透けていく。そこにはもう、マイホームも借金も、守るべき家族の笑顔さえも存在しなかった。ただ、終わりなき後悔だけが、新宿のビル風の中に消えていった。




