第四章 成長 第六十四話 雨
第四章 成長 第六十四話 雨
夕暮れ時の村は、どこか懐かしい橙色に染まり、影を長く伸ばしていた。神代蒼也は、背中に感じる鈍い痺れと戦いながら、村外れの古い橋の欄干に寄りかかっていた。
「蒼也、気を抜かないで。あの橋のたもとに溜まっているのは、ただの霧じゃないわ」
母・レイカの冷静な警告と同時に、空気が鋭く震えた。レイカは即座に愛銃を構え、霊力を込めた銃弾を装填する。彼女が狙いを定めた先、闇を切り裂く光が照らし出したのは、恐ろしい妖の姿ではなく、寄り添う二つの影だった。
一人は、村の外れに棲む妖の男『雨音』。彼は人間に混じって細々と暮らし、雨を降らせて作物を育てる温和な妖だった。対する女の妖『静』は、長い時を生きた強い力を持つ妖だが、今はひどく衰弱していた。静は雨音の腕の中で、今にも消えそうなほど淡い光を放っている。
「……また、結界を張りすぎたのね」
レイカが溜息をつき、銃口をゆっくりと下げた。彼女は二人の事情を知っていた。静は、この村に古くから伝わる水害を抑えるため、自身の命を削って結界を維持し続けていたのだ。そして雨音は、そんな静の苦しみを少しでも和らげようと、自らの貴重な妖力を分け与えていた。
「ダメだよ、静……これ以上僕の力を吸い取っても、君の寿命は延びないんだ」
雨音の切実な声が、風に乗って蒼也の耳に届く。彼の瞳には、ただ静を想う一途な愛しかなかった。静は弱々しく微笑み、雨音の頬を慈しむように撫でた。
「でもね、あなたと一緒に過ごすこの時間は、何百年もの永劫よりも価値があるの。私が消えたら……あなたもまた、独りぼっちに戻ってしまうね」
「そんなこと、どうでもいいんだ。君が生きてさえいてくれれば、僕なんてどうなったっていい」
蒼也は、懐の呪符を握りしめながらも、一歩も動くことができなかった。母のレイカでさえ、今の二人の間に入り込むことは許されないと判断したのか、静かにその場を見守っている。二人の愛は、あまりにも静かで、そして痛いほどに切なかった。彼らは、人間が求めるような形ある幸せではなく、ただ隣にいられることの尊さを知っているのだ。
突然、静の体から桜色に輝く光の粒子が溢れ出した。
長い年月、自らの命を削って張り続けた結界が、ついに限界を迎えた。
「雨音、笑って。最後に、あなたの笑顔が見たいわ」
静の願いに、雨音は涙を堪えて、精一杯の笑顔を作った。それは、この世の何よりも美しく、そして残酷なほどの笑顔だった。静の身体が粒子となって空へ舞い上がる。雨音はその粒子を必死に手ですくい上げようとしたが、指の間から光は零れ落ちていく。
「いかないで……せめて、声を聞かせて……」
雨音が空に向かって伸ばした手には、もう何も残っていない。彼はただ、降り始めた優しい雨の中に立ち尽くしていた。
蒼也は、その場に崩れ落ちた。ただの呪符しか使えない未熟な自分には、あの愛の重さに触れることさえできなかった。自分ができるのは、ただ見守ることだけ。その無力さが、中学生の蒼也の胸を鋭くえぐった。
「蒼也、行きましょう」
レイカは何も言わず、ただ蒼也の背をそっと叩いた。彼女の瞳には、かつて見たことのないほど深い慈しみが浮かんでいた。帰路の途中、雨音は静が消えた橋の上で、いつまでも雨を降らせていた。それは、彼女のいない世界で、彼が泣いている代わりの雨だった。
蒼也は振り返った。そこには、静を失った喪失感に耐えながら、それでも彼女が守り抜こうとした村に雨を注ぎ続ける、美しい妖の姿があった。
「母さん、僕たち、いつか……彼らのような強さを手に入れられるのかな」
蒼也の問いに、レイカは静かに答えた。
「強さとは、何かを奪うことじゃない。誰かを想い、そのために自分の全てを捧げる覚悟を持つことよ。……あなたは、もうその一歩を踏み出しているわ」
夜の帳が降りた村に、静かな雨音だけが響いている。蒼也は、その音を聞きながら、今夜出会った二人の愛をずっと胸に刻んでおこうと誓った。
夜の村に降る雨は、誰にも気づかれることなく静かに降り続けていた。
その雨音だけが、二人が確かに愛し合っていた証を、いつまでも語り継いでいた。
その夜の雨は、いつまでも蒼也の頬を優しく濡らし続けていた。
第六十四話 了




