第四章 成長 第六十三話 約束の迎え
第四章 成長 第六十三話 約束の迎え
老人ホームで、入居者が亡くなる直前に「黒い影を見た」と証言する不可解な事例が相次いでいた。
そして、老人ホームから、調査して欲しいと討魔庁に依頼があり、レイカが、担当になった。
黒い影が何を意味するのが分からなかったが、レイカは、入居者全員に聞き込みを開始した。どうやら、今、生きている人達は、黒い影は見ていない。言い方を変えると、黒い影を見ると、亡くなるということなる。
その時、奥の部屋から、女性の叫び声が聞こえた。
討魔庁の調査官であるレイカは、見習い中の蒼也を連れて老人ホームの重苦しい廊下を駆け抜けていた。突き当たりの特別養護室から聞こえた悲鳴は、あまりにも鋭く、絶望に満ちていた。
ドアを蹴破ると、そこには凍りつくような光景が広がっていた。窓際に立つ入居者の静江の足元に、実体のない闇が渦巻いている。それは形を保たないインクの染みのように、床を這い、じわりと彼女の輪郭を侵食していた。
「離れなさい!」
レイカは、弾丸に呪力が込められた拳銃を構えたが、黒い影は怯む様子もなく、静江を見つめ続けている。レイカは拳銃を構え、影に問い質した。
「何者!?目的は何?罪なき人々を襲う理由はなんだ!」
その問いに、影はゆっくりと輪郭を変えた。それは黒い靄ではなく、かつて誰かが抱いた切実な「想い」の形だった。影は、静江の老婆の目線と同じ高さまで沈み込み、掠れた声で囁いた。
「……迎えに、来たんだ」
その声には、悪意など微塵もなかった。レイカは銃を下ろすことができないまま、蒼也と共にその様子を見守った。
静江は震える手で、空中に浮かぶ影に触れようとした。彼女の瞳には、恐怖ではなく、懐かしさと愛おしさが宿っていた。影がさらに形を成すと、それは、一人の青年の姿になった。数十年前、戦地へ向かうために駅のホームで別れた、静江の婚約者だった。
「……あなたなの?」
静江の震える声に、影は優しく微笑んだ。影は、長い時間をかけてこの世に留まり、静江が天寿を全うするその瞬間を待ち続けていたのだ。
長い年月を彷徨った魂は、光を失い、人には黒い影として映っていた。
静江は、数十年もの間、誰にも話せなかった想いを語り始めた。戦争が終わった後も、彼が生きて帰ってくることを信じて、一度も恋をしなかったこと。独りで生きてきた孤独の中で、いつも彼が傍にいてくれると信じていたこと。そして、今日こそがその旅立ちの時であると、心のどこかで分かっていたこと。
「ずっと、会いたかった。寂しかったわ」
静江がそう言うと、影は彼女の手をそっと握った。その瞬間、部屋を覆っていた冷気が消え、柔らかな春の陽光のような温かさが広がった。黒い影は霧散し、その中心からは、柔らかな光が溢れ出していた。
「やっと、連れて行ける。もう二度と、離さないよ」
静江の表情は、まるで少女のように穏やかだった。彼女はゆっくりと瞼を閉じ、そのまま深い眠りにつくように息を引き取った。そこには、悲しみや恐怖など存在しなかった。ただ、半世紀以上の時を経て結ばれた、静江の純粋な愛と、それに応え続けた影の献身だけが、静寂の中に残されていた。
レイカは、静かに銃を納めた。彼女は、この「事件」が、死神による殺戮ではなく、約束された再会であったことを理解した。黒い影は、命を奪うための怪物ではなく、忘れ去られた約束を果たすための守護者だったのだ。
「…お母さんこれは」
蒼也が震える声で尋ねる。レイカは静江の穏やかな寝顔を見つめながら、静かに首を振った。
「これは、調査報告書には載せない。ただの、長い旅の終わりよ」
老人ホームという場所は、人生の終着点であると同時に、多くの記憶と未練が交差する場所だ。レイカは窓の外を見た。そこには、初夏の柔らかな風が吹き抜けている。誰にも知られることなく、人知れず幕を下ろす命があってもいい。その命が、最後の瞬間に温かな愛に包まれていたのなら、それは事件ではなく、奇跡と呼ぶべきものかもしれない。
彼女たちは静かに部屋を出た。廊下を歩く二人の足音は、先ほどまでの緊迫感が嘘のように静かだった。この世には、人間の理解を超えた理がある。それを守り、時には見守るのが討魔庁の役割なのだと、レイカは改めて胸に刻んだ。
老人ホームの日常は、何事もなかったかのように続いていく。しかし、あの日、あの一室で起きた出来事は、永遠に静江と少年の二人だけの思い出として刻まれた。どんなに時代が変わっても、愛する人を待ち続け、再び巡り会うという人の情念は、どんな魔よりも強く、そして美しいものなのかもしれない。
レイカは空を見上げた。高く澄み切った青空に、二つの魂が溶け込んでいくような気がした。彼女たちの仕事は、こうして誰かの救いに立ち会うことなのかもしれない。そう思いながら、レイカは次の依頼先へと足を向けた。
今回の調査を通じて、彼女は改めて学んだ。死は、終わりの響きではない。それは、魂が本来帰るべき場所へ戻るための、優しい約束の音なのだと。彼女の背中は、夕陽に照らされて少しだけ大きく、そして優しく見えた。




