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第四章 成長 第六十二話 生きる理由

第四章 成長 第六十二話 生きる理由


古くからの山々に囲まれた小さな村に、ひとりの女がいた。その姿は、朝霧に濡れた山百合のように清らかで、誰をも惹きつける気品を湛えていた。


噂は風に乗り、隣国の武士の耳にまで届いた。女のもとを訪れた武士は、その一目を見て恋に落ちた。男は真っ直ぐに求婚したが、女は静かに首を振った。


「私はただの農家の娘。お武家様とは、住む世界が違いすぎます」


身分の差という重い壁に、武士は迷わなかった。その日のうちに腰の二本差しを外し、農具を握る道を選んだ。誇りを捨て、ただ女と共に生きる未来を選んだのだ。


二人の生活は貧しくとも、慈しみに満ちていた。しかし、幸福は時として脆い。やがて女は原因不明の病に伏し、床から起き上がることができなくなった。


日ごとに痩せ細る女は、自らの手で家事もできず、男の世話になる自分を責め続けた。


「私さえいなければ……あなたの重荷になってしまった」


涙を流す妻の手を、男は力強く握りしめた。


「何を言う。お前がただ、そこにいてくれるだけでいい。お前がいれば、他に何もいらないんだ」


ある日、男が畑から戻ると、血の匂いが立ち込めていた。妻が自らの手首に包丁をあてていたのだ。男は悲鳴を上げ、駆け寄ってその腕を抱きしめた。止まらない出血に顔を青ざめさせながら、男は子供のように声を上げて泣きじゃくった。


「なぜこんなことをするんだ! お前がいなくなったら、俺はどうやって生きていけばいいんだ! 二度と、二度とこんなことはしないでくれ!」


男の必死の懇願に、妻はただ震えていた。死ぬことすら許されない、それがこの二人の愛の形であった。


男は狂ったように働いた。昼は畑を耕し、夜は内職をして小銭を稼いだ。そしてある時、どんな難病も治すという伝説の薬の存在を知った。しかし、それは身売りをしても足りないほど高価なものだった。


男は町で名高い薬師の門を叩いた。


「お願いします。薬を譲ってください。代金は必ず、一生かかってでも、毎月少しずつ支払います」


男の瞳に宿る、妻を想う狂気じみた情熱に動かされたのか、薬師は苦渋の表情で薬を差し出した。


男は駆け足で持ち帰り、妻にその薬を飲ませた。奇跡は起きた。数日後、妻は起き上がり、一月後には畑仕事ができるまでに回復した。村には再び二人の笑い声が戻った。


男は約束を果たすため、毎月欠かさず薬師のもとへ通った。


そして、その日も、汗を流して貯めた金を握りしめ、薬師の店を訪れた。しかし、薬師は男から金を受け取らず、穏やかな表情でこう言った。


「もう薬代はいらない。その金は、二人のために使いなさい」


男は不思議そうな顔をした。まだ支払いは終わっていないはずだ。困惑する男に、薬師は懐から一通の手紙を取り出して渡した。


それは、妻が病に伏していたあの日、男が畑に出ている間に薬師へ宛てて書き残していたものだった。


『お武家様だった貴方は、私のためにすべてを捨てました。けれど、もし私が死ねば、貴方はその美しい過去を思い出し、深い後悔の中で生きることになるでしょう。私は、貴方にそんな顔をさせたくない。貴方が笑って生きてくれることが、私のたった一つの願いです。私のために、もう二度と貴方の人生をすり減らさないでください』


そして手紙の最後には、こう記されていた。


『貴方が薬を買うために差し出した金は、実は私がこっそりと薬師様に預けていた、かつて母から譲り受けた形見の指輪を売った金です。薬師様には無理を言って、それを貴方に受け取らせてほしいと頼み込みました。だから、どうかこれ以上、貴方の尊い命を削って私を救おうとしないで。貴方はもう、私を救い出したのですから』


男は、震える手で手紙を抱きしめた。その瞬間、男の脳裏に、あの日の妻の涙と、男の命を繋ぎ止めようとした妻の執念が鮮やかに蘇った。


自分が妻を救ったのではない。妻こそが、自らを犠牲にしてまで、男が「生きる理由」を守り抜こうとしていたのだ。


薬師は静かに店を閉めた。男は店先で、夕陽に染まる村を見つめながら、ただただ涙を流した。その涙は、苦労の涙ではなく、愛する人のあまりに深い慈しみに触れた、魂の震えだった。


男は店を出ると、家へと駆け出した。家路の途中で、男は心に決めた。今夜からは、妻のために生きるのではない。妻と共に、二人の命を大切に慈しみ合い、ただ共に生きるために生きようと。


その夜の食卓は、今までよりもずっと温かく、夜空の星々が、まるで二人の門出を祝うかのように美しく輝いていた。


レイカは、今日の村の話し終えると、静かにハンドルを握った。


「愛する人を本当に救うというのは、命を守るだけじゃない。その人が生きる理由まで守ることなのよ」蒼也は窓の外に流れる夕焼けを見つめ、小さく頷いた。

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