第四章 成長 第六十話 信じる代償
第四章 成長 第六十話 信じる代償
「はい、討魔庁オペレーターセンターです。どのようなご用件でしょうか」
受話器の向こうから聞こえてきたのは、絞り出すような、か細い声だった。
「もう……もう、無いのです」
「お客様、何が無いのでしょうか? 落ち着いてお話しください」
「寄付するお金が、もう無いのです」
オペレーターの女性は眉をひそめた。討魔庁は公的機関であり、国民の安全を守るために存在している。活動に際して謝礼や寄付を受け取ることは、規定で固く禁じられているはずだった。
「お客様、討魔庁ではいかなる名目であっても、お金を頂戴することはございません。それはおそらく、偽の陰陽師による詐欺行為です」
「先月……『陰陽師』と名乗る女が来ました。子供の病気が治らないのは、私たちが汚れたお金を持っているからだと言われたのです。……老後のためにと、何十年もかけて貯めてきた五千万円を、すべて寄付しました。それでも、子供の病気は一向に良くならないのです。私たち、どうすればいいのでしょうか」
受話器の向こうで、すすり泣く音が聞こえた。これはただの相談ではない。悪質な霊感商法による被害案件だ。討魔庁の対応窓口は即座に上層部へ連携し、調査および介入の準備が整えられた。
「お客様、討魔庁より専門の者を派遣いたします。ご相談から悪霊の討伐まで、費用は一切かかりません。来週の月曜日、ご都合いかがでしょうか」
「……はい、月曜日なら、お昼でしたら空いています」
月曜の昼下がり、神代レイカと蒼也は、指定された一軒家を訪れた。
閑静な住宅街の一角にあるその家は、どこか淀んだ空気を纏っていた。玄関先に近づくと、奇妙なものが視界に入った。濁りきった水が入ったペットボトルが、整然と並べられている。
「ただの水ね……。」レイカは呟いた。
玄関先で作業をしていたのは、憔悴しきった表情の家主の男だった。彼は慌てた様子でペットボトルを片付けようとしながら、卑屈な笑みを浮かべた。
「ごめんなさい、今、運びます。午前中、群馬の山奥まで行って……風水で聖なる水があると言われた場所から汲んできたんです。これを飲めば、子供の病気が治るかもしれないと聞いて……」
男の手は震えていた。その時、家の奥から、傲岸不遜な雰囲気を漂わせた一人の女が現れた。派手な装束に身を包んだその女は、レイカたちを一瞥すると、舌打ちをした。
「この方々は誰ですか? 私の他にも、陰陽師が必要なのですか? それとも、私を信じられないと?」
女の言葉に、家主の男は縮み上がった。
「いえ、そうではありません! ですが、もう……寄付するお金がなくて。討魔庁なら無料だと聞いて……」
男の言い訳を聞いた女は、嘲るように口角を上げた。
「お金がない? なら、この家を売ればいいでしょう。何を怖がっているのですか? 私は構いませんよ、もう私との縁を切りますか?」
男は沈黙した。五千万円という大金を注ぎ込んだ今、この女と決別することは、これまでの投資がすべて無駄になる恐怖を意味する。女はさらに畳み掛けた。
「先祖の供養だって、まだ終わっていない。この討魔庁の人間にやってもらうのですか? まあ、同じ陰陽師なら、そのくらいはできるでしょうけれど」
女が立ち上がり、家を出ようと背を向けたその瞬間、男は悲痛な叫び声を上げてその場に跪いた。
「分かりました! 家を売ります。お金ができたらすぐに連絡しますから……私達を見捨てないでください!」
「……私を信じるのですね? では、この人たちと二度と会わないと誓ってください」
「はい、誓います。……討魔庁の方、ごめんなさい。もう二度と来ないでください」
レイカは男をしばらく見つめていた。助けたい。しかし、本人が拒絶する以上、どうすることもできない。やがて静かに頭を下げ、その家を後にした。
車に戻り、重い沈黙が流れる中、レイカは助手席の蒼也に向かって、穏やかながらも厳しい口調で語りかけた。
「人間というのは、本来とても弱い生き物なのよ、蒼也」
ハンドルを握るレイカの手には力がこもっていた。
「もし、あなたが病気になったら……お母さんも、あのお父さんと同じように、藁にもすがる思いで理性を失ってしまうかもしれない。人間の心にある『不安』や『弱さ』につけこんで、こうして金をむしり取る輩は後を絶たないの」
レイカはバックミラー越しに、蒼也の瞳を見つめた。
「世の中には、こうした汚い現実があるということを、一人の母親としてあなたに知ってほしかったの。今日、あなたを連れてきたのはそのためよ。どんなに技術を磨いても、心が強くなければ、その術は誰かの操り人形にされるだけの道具になってしまう」
蒼也は黙って俯いた。母の言わんとすることを、彼は彼なりに噛み締めていた。自分を信じ、強く生きる――それは、術の習得以上に困難な、一生の課題であるように思えた。
そのとき、静寂を破るようにレイカのスマートフォンが鳴った。
表示された名前は、先ほどの家主だった。
これから始まるのは、救済なのか、それとも逃れられない破滅の始まりなのか。レイカは小さく息を吐き、受話器に指をかけた。
第六十話 了




