第四章 成長 第五十八話 魂の救済
第四章 成長 第五十八話 魂の救済
夕暮れ時、老人ホーム「やすらぎの園」の廊下には、どこか鼻を突くような線香の香りと、静寂が漂っていた。窓の外では赤い太陽が沈みかけており、施設内を長く、歪な影が支配している。
「蒼也、気をつけて。この奥から、嫌な湿り気を含んだ妖気を感じるわ」
背後から響いた母・レイカの声に、蒼也は反射的に喉を鳴らした。母の腰の両サイドには、討魔庁から支給された特注の二丁拳銃が重々しく鎮座している。その銃身に刻まれた霊紋が、薄暗い廊下で微かに発光していた。この施設で「正体不明の怪奇現象」が頻発しているという通報を受け、レイカ達は調査に乗り出したのだ。
角を曲がった先、廊下の突き当たりにある個室の扉が、半開きになっていた。中を覗き込むと、窓際に一人の老人が座っている。痩せ細った背中が、まるで時が止まったかのように動かない。レイカ達は警戒しながらゆっくりと近づいた。不審に思いながらも、蒼也は護符を数枚、懐から取り出していつでも使えるように構えた。
老人が、ギシリと音を立ててこちらを振り返った。その瞬間、蒼也は息を呑んだ。老人の瞳には焦点がなく、しかし、蒼也を見た途端に驚くほど温かな笑みが浮かんだ。
「……ああ、やっと来てくれたんだね。……蒼也、私の可愛い蒼也」
老人は、蒼也の名前を呼んだ。心臓が跳ねる。なぜ、この場所にいるはずのない自分の名前を? しわくちゃの手が、震えながら蒼也の頬へ向かって伸びてくる。蒼也は反射的に一歩下がり、首を横に振った。
「違います。僕は神代蒼也ですけど、あなたのお子さんじゃありません! 人違いですよ」
必死の否定も、老人の耳には届かないようだった。彼はどこか遠い場所を見つめるように微笑み続け、再び蒼也に向かって手を伸ばす。
「何を言っているんだい。ずっと、ずっと待っていたんだよ。家族も誰も来ない、この冷たい部屋で。……でも、最後にこうしてお前に会えたから、もう思い残すことはない。ああ、本当にいい子に育って……」
その言葉を聞いて、蒼也は背筋が凍るような感覚を覚えた。彼の声には、嘘や悪意など微塵もなかった。ただ、深い寂しさと、叶わなかった願いだけが渦巻いている。
レイカが、蒼也の肩にそっと手を置き、前に出た。母の目は、物理的な肉体を超えた「何か」を見据えている。母は一瞬だけ悲しげに瞳を伏せ、そしてすぐに毅然とした表情で告げた。
「蒼也、下がっていなさい。この方は……もう、ずっと前に亡くなっているわ」
母の言葉に、蒼也は言葉を失った。よく見れば、老人の足元には影がない。施設の職員も気づかないほど静かに、彼はこの世の縁を切り、孤独の中で息を引き取っていたのだ。そして、自分が死んだという事実を認識できないまま、家族への未練が「妖」としての姿を形成させていた。
「寂しかったんだね……ずっと、待っていたんだね」
老人は蒼也の手をぎゅっと握りしめた。その手は、まるで氷のように冷たかった。母が銃を構えようとするのを、蒼也はそっと手で制した。母の弾丸は妖を浄化するが、今の彼に必要なのは、力による排除ではなく、魂の救済だと直感した。
「ごめんなさい、おじいさん。僕はあなたの息子じゃない。でも……あなたの想いは、確かに伝わったよ」
蒼也は懐から、普段使っている護符の中でも最も強力な『鎮魂の護符』を取り出した。指先に霊力を集中させる。丹田から熱い力が込み上げ、指先を伝って護符に文字を刻んでいく。
蒼也は、老人の額に、優しく護符を押し当てた。
「安らかに眠ってください。あなたは、もう独りじゃない」
霊力を注ぎ込むと、護符から柔らかな黄金色の光が溢れ出した。それは母の放つ峻厳な光とは違い、夕陽のように温かく、彼を優しく包み込んでいく。老人の顔から、張り詰めていた悲しみの色が消えていく。彼は、蒼也の手を優しく握り返し、まるで本当の我が子を見送るかのように、満足げに微笑んだ。
部屋を包んでいた冷気が、穏やかな春の風へと変わる。光の粒子が天井へと昇っていき、やがて老人の姿はどこにも見当たらなくなった。
「......お前に会えてよかった」
静まり返った部屋で、蒼也は自分の手がまだ誰かの温もりを覚えているような錯覚に陥り、そっと胸を押さえた。母が驚いた表情を見せた後、安堵の笑みを浮かべて銃を収めた。
「……よくやったわ、蒼也。力でねじ伏せるだけが陰陽術じゃない。その心がある限り、あなたは素晴らしい陰陽師になれるわ」
蒼也は頷き、もう誰もいない窓際から視線を外した。沈みかけた太陽の光が、廊下の先を温かく照らしていた。




