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第四章 成長 第五十四話 獏

第四章 成長 第五十四話 獏


神代蒼也は、ここ最近、満足に眠れたことがなかった。


瞼を閉じれば、どこか湿った、冷たい闇が広がる。そこには名状しがたい不安が渦を巻き、彼を追い詰める。毎晩のように繰り返される悪夢に、蒼也の精神は削り取られ、日中の活動にさえ支障をきたし始めていた。深い眠りから切り離され、常に意識の表面がざらついているような感覚。その不快感から逃れたくて、彼は今夜も重い足取りでリビングへと向かった。


時計の針は深夜二時を回っている。台所の明かりが、琥珀色の光を落としていた。そこでは、


父と葛の葉が、お酒を飲んでいた。


父は蒼也の顔色をひと目見て、何も問わずに隣の椅子を引いた。


「また、眠れないのか」


穏やかな、しかしどこか見透かすような声だった。蒼也は深く頷き、力なくテーブルに突っ伏した。自分が体験している悪夢の断片を言葉にしようとしたが、喉の奥で詰まって消えてしまった。ただ、この終わりの見えない疲弊をどうにかしたいという焦燥だけが、胸を締め付けている。


父は無言で、手元にあった半紙と筆を手に取った。さらさらと墨を擦る音だけが、静寂を際立たせる。父は迷いのない筆致で、紙の中央に力強く「獏」の字を書き記した。


「これを、枕の下に置いて寝るんだ」


父は書かれた紙を二つ折りにし、蒼也の手のひらに握らせた。


「室町時代、人々が悪夢に悩まされた時に用いたおまじないだ。……まあ、現代の医学的根拠など何もない、単なる気休めに過ぎないがな」


父は少しだけ自嘲気味に笑ったが、その瞳には深い慈愛が宿っていた。


「寝る前に、枕元でこう唱えるんだ。『昨日の夢は獏にあげます』と。それを三回。獏という霊獣が、悪い夢を喰らってくれる。そう自分に言い聞かせるだけで、心持ちは随分と変わるものだ」


蒼也はその紙をじっと見つめた。墨の香りが、微かに鼻腔をくすぐる。ただの紙切れ一枚に過ぎない。しかし、父の差し出したその手の中には、彼を案じる温かな想いが凝縮されていた。


「もし、それでも眠れなければ」


父は杯を置き、真正面から蒼也を見つめた。


「お父さんと話をしよう。どんなくだらないことでも、悩みでも、ただの雑談でもいい。夜が明けるまで、付き合うよ」


それは蒼也にとって、何よりも頼もしい救いの言葉だった。悪夢という孤独な闇から、現実の温かな場所へ引き戻してくれるような合図。


葛の葉は黙って徳利を置き、優しく微笑んだ。


「今夜は、きっと眠れるよ。」


蒼也は、父の言葉を反芻しながら、ゆっくりと立ち上がった。握りしめた紙の感触が、不思議と安心感をもたらしてくれる。今夜は、これまでよりも少しだけ穏やかに、眠りの淵へと降りていけるような気がした。


もし夢の中に怪物が現れても、今の自分には、それを喰らってくれる獏がついている。そして何より、この夜の果てには、父という確かな繋がりがある。


蒼也は「ありがとう」と短く告げると、自分の部屋へと戻った。


枕の下に「獏」の紙を慎重に収め、彼は静かに瞼を閉じた。


心の中で、小さく三回、言葉を紡ぐ。


「昨日の夢は獏にあげます。昨日の夢は獏にあげます。昨日の夢は獏にあげます」


暗闇が、以前のように恐ろしい場所ではなく、休息のための優しい幕のように感じられた。蒼也の呼吸は次第に深まり、静寂の中で意識が溶けていく。


夜はまだ深い。しかし、彼はもう、自分一人で悪夢と戦う必要はないことを知っていた。


挿絵(By みてみん)

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