第四章 成長 第五十二話 さくら
第四章 成長 第五十二話 さくら
月明かりが、山あいに沈む静かな村を青白く照らしていた。
神代蒼也は、冷たい夜風に吹かれながら、古い神社の境内で震える手を握りしめていた。手元には、書きかけの呪符が数枚。呼吸を整え、己の視界の端に映る『歪み』を捉えようと神経を尖らせる。
「蒼也、集中しなさい。敵は、ただの影じゃない」
背後から低く響いたのは、母・神代レイカの声だった。彼女は手慣れた手つきで愛用の特殊拳銃を点検し、その銃身には微かな妖力の光が宿っている。伝説的な陰陽師であり、その拳銃で数多の妖を討ち滅ぼしてきた母の背中は、いつだって頼もしかった。
だが、今夜の獲物は違った。
村の入り口にある古い大樹に宿る、古びた桜の妖――『花宵』。
彼女は、村人たちに密かに夢を見せ、穏やかな死へと誘う妖だった。しかし、その正体はかつてこの村の若者に恋をしたまま、時が止まった一人の娘の成れの果てだった。
「……いた」
蒼也が呟いた瞬間、桜の木から淡い光が溢れ出し、一人の女の姿が浮かび上がった。透き通るような白磁の肌、桜色に染まった着物。彼女は、悲しげな瞳で村の方角を見つめていた。
「あれを、消すのか……」
蒼也の問いに、レイカは拳銃を構えながら冷徹に答える。
「そう。あれは人を惑わす。村を守るのが、私たちの仕事よ」
レイカが銃口を向ける。その気配を察したのか、女は悲しげに微笑んだ。その表情があまりにも人間らしく、蒼也は思わず「待って」と叫ぼうとした。その時、女がふらりと歩き出し、蒼也の目の前に現れた。
妖の放つ香りが、蒼也を包み込む。それは、過ぎ去った春の匂いだった。
「……あなた、あの子に似ているのね」
女は蒼也の頬に触れようとして、すっと手を止めた。彼女の指先が、蒼也の纏うわずかな霊力に触れて火花を散らす。
「昔、私に名前をくれた人がいたの。私を『さくら』と呼んで、いつかまた必ず迎えに来ると約束してくれた」
女の瞳から、一筋の涙が零れ落ちた。それは地面に触れる前に淡い花びらとなり、夜風に散っていく。
「私、ずっと待っていたの。百回、千回、季節が巡っても。でも、彼はもう戻らない。私は人間じゃないから、彼を追いかけることもできない」
女はゆっくりとレイカの方を向き、慈しむような眼差しを向けた。
「あの銃には、想いを受け止める力があるのでしょう? 私を、彼の元へ送って。この呪縛から、解き放って」
その瞬間、蒼也の中で何かが弾けた。
彼は懐から呪符を取り出すと、震える声で詠唱を始めた。
「もう、待たなくていい。あなたの想いは、きっと届いている。どうか安らかに──鎮魂。」
蒼也の投げた呪符が宙で輝き、女の周囲に光の檻を作る。しかし、それは彼女を攻撃するものではなく、彼女の妖力を穏やかに浄化するためのものだった。
「蒼也!」
レイカの声が響く。彼女は拳銃を構えたまま、その光景をじっと見つめていた。母の瞳には、妖を討つ冷徹さではなく、どこか哀愁に満ちた色が浮かんでいた。レイカは、最初から気づいていたのだ。この妖が誰を想い、何を願っているかを。
「さようなら、優しい人」
女は蒼也に向けていた悲しげな微笑みを、心からの感謝に変えた。
彼女の体から、光の粒が溢れ出す。それは夜空へと舞い上がり、まるで満開の桜が舞うように村を包み込んでいく。
「ありがとう……これで、やっと会える」
最後の一粒が消えた瞬間、大樹はただの老木に戻り、村には静寂が訪れた。
蒼也はその場に崩れ落ちた。肩で息をしながら、空を見上げる。そこには、いつの間にか夜空に満月が昇っていた。
「……蒼也」
背後から近づいてきたレイカが、そっと息子の肩に手を置いた。彼女は愛用の拳銃をホルスターに収め、空を見つめたまま呟く。
「中学生にしては、上出来よ。……あの子は、ようやく自由になれたわ」
「母さん、あれは……恋だったんだね」
「そうね。人間と妖、交わることのない運命だったけれど。でも、その想いだけは、確かにこの村の夜に刻まれていたわ」
レイカの瞳が、少しだけ潤んでいるように見えた。それは決して妖を討ったからではない。何十年、何百年と人を想い続けた一人の『女』の最期に、敬意を払っているかのようだった。
村には、また静かな朝がやってくる。
蒼也は立ち上がり、握りしめていた呪符を懐にしまった。もう、その手は震えていなかった。
妖の悲しみを知り、人間の想いを理解した夜。蒼也は少しだけ、陰陽師として、そして一人の少年として、大人への階段を登ったような気がした。
「行こう、母さん」
「ええ。帰ったら、温かいお茶でも淹れてあげる」
二人の影が、月光に照らされて長く伸びる。
桜の木は、もう静かに眠っていた。その根元には、先ほどまで彼女がいたことを示すかのように、季節外れの小さな花が一輪だけ、凛と咲いていた。




