成長 第五十一話 彼が望んだ世界
第四章 成長 第五十一話 彼が望んだ世界
山深い村の神社に、ひとりの妖が住んでいた。その容姿は雪のように白く、長い髪は夜の闇を溶かしたように深い黒。彼女は誰にも姿を見られることなく、この地で永い時を生きてきた。
彼女が唯一心を許したのは、麓の地区に住むひとりの青年だった。彼はこの村の中でも特別な場所に暮らしていた。周囲の人間たちは、彼を指さし、蔑んだ目で見ていた。彼がどれほど真面目に生きようとも、出自を理由にまともな職には就けず、いつも冷たい視線を浴びていた。
彼女は、彼が誰にも言えない苦しみを抱えながらも、それでも健気に生きる姿に惹かれていた。ある夕暮れ、神社を訪れた彼に、彼女は思わず姿を現した。本来、人間にその姿は見えないはずだった。しかし、彼の深い孤独と絶望が、奇跡のように彼女との境界を薄くしていた。
「見えるのかい?」
青年は驚きながらも、すぐに微笑んだ。その出会いから、夜ごとの語らいが始まった。青年は彼女に、自分が受けてきた理不尽な扱い、希望を奪われる苦痛を吐露した。彼女は彼の痛みを分け合うように、ただ寄り添い続けた。
しかし、現実はあまりに過酷だった。社会の扉は彼のために開かれることはなく、彼はついに自ら命を絶った。
彼が亡くなったその夜から、村には異変が起きた。かつて彼を差別し、追い詰めた村人たちが、次々と原因不明の高熱と吐血に倒れ始めたのである。それは、最愛の人を奪われた妖の、終わりのない怨嗟の叫びだった。
村中が恐怖に震える中、窮した村長は討魔庁へ救援を求めた。派遣されたのは、凄腕の陰陽師・神代レイカと、その息子で中学生の蒼也だった。
レイカは妖を物理的に消滅させる霊力を込めた二丁拳銃を腰に下げていた。蒼也の武器は、霊力を込めた呪符だけ。彼はまだ、この世の複雑な事情を知らない、真っ直ぐな瞳をした少年だった。
村に到着した二人は、霧が立ち込める神社へと向かった。そこには、血の涙を流しながら呪いを振りまく妖の姿があった。
「離れなさい!」
レイカが拳銃を構え、妖を威嚇する。しかし、妖は狂乱したように笑い、呪符を弾き飛ばした。
「なぜ、この村の人々を苦しめる!」
レイカの問いに、妖は悲痛な声で答えた。
「彼らが、彼を殺したからだ。何の罪もない彼を、出自というだけで追い詰め、希望を奪い、死へ追い込んだからだ!」
妖の言葉を聞いた蒼也は、戸惑った。「出自? 地区? それで人を傷つけるの?」
蒼也は学校で習ったこともない、あまりに理不尽な社会の闇を知った。彼には、なぜ人が人を理由もなく排斥するのか、どうしても理解ができなかった。
「母さん、待ってくれ。この妖は、ただ愛する人を奪われて悲しいだけなんじゃないか?」
蒼也は呪符を握りしめ、妖の前にゆっくりと歩み寄った。妖は青い炎を纏い、今にも蒼也を焼き払おうとしていた。
「人間はみんな同じだ。私からすべてを奪った!」
「僕は違う。君の悲しみを知りたい」
蒼也は震えながらも、妖にそっと呪符を翳した。それは攻撃のための呪符ではなく、心の澱を鎮めるための封印の符だった。
レイカは拳銃を下ろした。息子の真っ直ぐな心が、妖の鎧を崩していくのを待った。
「彼が生きたかった世界を、君にも見てほしかったはずだ。彼も、君が人を呪って悲しむなんて望んでいないよ」
蒼也の純粋な言葉が、妖の荒ぶる心を揺らした。妖は膝をつき、激しい嗚咽とともに、村人たちへの呪いを解いていった。
村に静寂が戻った。しかし、妖の心に刻まれた傷は消えない。
「私は、ここから離れられない。彼との思い出が、この場所に閉じ込められているから」
妖はそう呟き、姿を消した。
後日、村を去る車の中で、蒼也は母に聞いた。
「母さん、どうしてあんなひどい差別があったの? 彼は、普通の人だったんでしょ?」
レイカは静かにハンドルを切りながら答えた。
「人間は時として、自分たちが優位だと信じるために、誰かを下に見なければならないという愚かな弱さを持っているのよ。それを変えるのは、とても時間がかかることだけど」
蒼也は窓の外を見つめた。神社の木々が風に揺れている。彼は思った。いつか、自分たちの世代で、そんな理不尽な壁を壊すことができるだろうかと。
遠くで鳴る鐘の音に、妖の寂しそうな面影を重ね、少年は深く静かに誓った。世界にはまだ、自分の知らない哀しみが溢れている。けれど、それを知ろうとすることを、自分は止めないと。
霧が晴れ、道が開けていく。蒼也の旅は、始まったばかりだった。




