第四章 成長 第五十話 誉の家
第四章 成長 第五十話 誉の家
山あいの小さな村。その外れにある古びた神社に、一人の女が住んでいた。
彼女は妖であった。長い年月をここで静かに過ごし、季節が巡るたびに木々の色を変え、虫の音を愛でてきた。だが、彼女が何よりも心待ちにしていたのは、日が暮れる頃にふらりと現れる、一人の人間の男との語らいだった。
男は毎日のように神社へやってくる。仕事帰りだろうか、少し疲れた足取りで石段を登り、手水舎で清め、拝殿の端に腰を下ろす。男には、そこに妖の女がいることは見えていない。それでも、彼はまるで隣に誰かがいるかのように、ぽつりぽつりと話すのだ。
「今日は、遠い海の向こうの国について本で読んだんだ」
「都会の空は、ここよりもずっと狭くて、夜でも明るいらしい」
男が語る、彼女の知らない世界の出来事。その声は優しく、どこか温かい温度を孕んでいた。妖の女は男の隣に座り、目を細めてその言葉に耳を傾ける。目には見えずとも、男の存在感は彼女の寂しい心を鮮やかに塗り替えていった。それは彼女にとって、永遠に続いてほしい穏やかな日々の営みだった。
しかし、時は残酷に過ぎていく。ある秋の夕暮れ、男の声には珍しく震えが混じっていた。
「赤紙が届いたんだ」
男は短くそう言った。それが何を意味するのか、妖の女は知識として知っていた。戦争。人が人を殺め、奪い合う、血塗られた悲劇。
「行かないでほしい」
女は思わず叫んだ。しかし、男にはその悲鳴も届かない。男は空を見上げ、遠くを見るような目で言った。
「お国の為だ。死ねることは名誉なことなんだよ」
男の表情には、恐怖よりも不思議なほどの高揚感が混じっていた。
翌日、村は異様な熱気に包まれた。男の家の前には大勢の人だかりができ、皆が「万歳、万歳」と声を上げ、割れんばかりの拍手を送っている。赤紙を捧げ持った男を囲み、まるで祭りのように誰もが笑っていた。
妖の女には、それがどうしても理解できなかった。これから死地へと赴く者に、どうしてそんなに笑顔を向けられるのか。なぜ、別れを悲しむのではなく、祝うことができるのか。彼女の心には、理解しがたい人間の矛盾が冷たい楔のように刺さった。
出発の直前、男は最後にと神社へ向かった。死を覚悟した男の足取りは、いつになく力強かった。
拝殿の影に辿り着いたその時、男は立ち止まった。そこには、長い黒髪を風になびかせ、色白で儚げな女性が座っていた。
「……見える。君の姿が見えるんだ!」
男の瞳が驚きに見開かれる。妖の女は息を呑んだ。男の祈りが神に届いたのか、それとも最後だからと、神が慈悲、あるいは残酷な悪戯を施したのか。
「最後だから、神様が僕にプレゼントをくれたのかもしれないね」
男は屈託のない笑みを浮かべた。しかし、女は泣き崩れそうだった。最後の別れに姿を見せるなど、これほど残酷なことがあるだろうか。男は懐から一枚の写真を差し出した。
「寂しい時は、これを見てほしい。お国の為に、頑張ってくるから」
女は震える手でそれを受け取った。その写真には、少しはにかんだ男の笑顔が焼き付けられていた。これが、永遠の別れになるのだと、彼女は知っていた。
数日後、役所から係の男がやってきた。男の家族は泣き叫ぶどころか、恭しく頭を下げ、冷徹な響きを伴う言葉を受け取った。
「このたびは、ご名誉の戦死であります。」
そのあと村人が、おめでとうございます!」と言った。
「誉の家」と記された日の丸の札が渡され、家族はそれを誇らしげに表札の上に掲げた。通りすがりの村人たちは、その札を見て再び拍手を送った。
妖の女は神社の奥深く、誰の耳にも届かない場所で、男から受け取った写真を握りしめ、ただ泣いた。その悲しみは、何年経とうとも癒えることはなかった。
毎年、終戦記念日には、討魔庁からレイカが派遣され、神社の穢れを払うことになっている。
それでも妖は成仏せず、男の写真だけを抱き続けていた。
彼女は神社の奥に鎮座する、悲しみを背負った妖の気配をいつも感じていた。蒼也は、母からその経緯を聞かされるたび、胸の奥が締め付けられるような感覚を覚えた。
「なぜ、死を祝ったんだ。なぜ、あの女の悲しみは誰にも届かなかったんだ」
蒼也の問いかけに、答えられる者は誰もいなかった。ただ風が木々を揺らし、神社には今日も冷たい静寂だけが降り積もっていた。
第五十話 了




