第四章 成長 第四十七話 薄紅色の花
第四章 成長 第四十七話 薄紅色の花
霧の深いその村は、地図から消えたかのような静寂に包まれていた。
神代蒼也は、肌にまとわりつく湿った夜風に頬を撫でられながら、
手の中の呪符を強く握りしめた。中学生の蒼也にとって、この村に漂う禍々しい気配は、日常そのものだった。
陰陽師の家系に生まれた彼だが、今の彼にできるのは、呪符を用いた妖の討伐と、霊視の瞳で視界を確保することだけだ。呪符を扱うたび、指先から流れる魔力の感覚に、まだ慣れきれない自分を恥じることもある。
「蒼也、集中して。隙を見せれば、命はないわよ。何を感じる?」
背後から聞こえる凛とした声。母であり、凄腕の陰陽師でもある神代レイカだ。彼女の腰には、霊力を練り上げ、妖を物理的に穿つ特注の拳銃が二丁、鈍い光を放っている。その銃弾には、母が長い年月をかけて蓄えた強大な妖力が込められており、並の妖なら一撃で浄化されるほどの威力を誇る。
蒼也にとって、母は決して負けない存在だった
「わかってるよ、母さん。……でも、今回は少し、様子が変だ。妖気とは違う、
もっと静かな……」
蒼也は村の中心にある古びた社を見つめた。そこには、今まで討伐してきたような禍々しい妖気とは異なる、切なくも美しい、薄紅色の光が揺らめいていた。
それはまるで、長い夜の終わりを待ちわびる灯火のようだった。
「妖がいる。……それも、今までとは違う、とても悲しい光だ」
その時、霧の向こうから影が現れた。美しい着物を纏い、長く流れる黒髪の先が霧に溶けそうな、儚げな女だった。彼女の瞳は、まるで夜空を映したかのように深く、そして果てしない悲しみに濡れていた。女の姿は、周囲の闇に同化するように揺らめき、今にも消えてしまいそうな危うさを抱えていた。
「……見つけた」
女が呟いた声は、風の音よりも静かだった。蒼也が瞬時に呪符を構えようとした瞬間、
母のレイカがその腕を制し、前に出た。
「待って。その妖……殺気がないわ。それどころか、あなたを求めている」
レイカは拳銃に手をかけたまま、研ぎ澄まされた感覚で女を注視した。
女はレイカを一瞥もせず、ただ蒼也だけを見つめていた。その瞳に浮かぶのは、人間への敵意ではなく、形容しがたい恋慕と、やがて消えゆく者の深い諦念だった。
「貴方は……? こんな場所で、何を……」
蒼也が問いかけると、女はふわりと微笑んだ。その笑顔は、あまりに人間らしく、そしてどこか懐かしい懐かしさを感じさせた。
「私は、この村を見守る古い妖。……あなた、蒼也というのですね。ずっとずっと、
遠くからあなたの成長を見守ってきました。やっと、お会いできました」
彼女の名前は『灯』と名乗った。灯は語った。数十年前に村で迷い、死にかけたところを、蒼也の先祖に救われたこと。それ以来、この村の片隅で、ただ静かに、蒼也の家族の成長を見守り続けてきたこと。彼女にとって、この村は唯一の居場所であり、そこでの蒼也の成長は、彼女の生きる糧だったのだ。「私は、長い時の中で、あなたに恋をしてしまったのです。ずっと、ずっと遠くから見ていただけ。
でも、もうすぐ……この地から私の存在が消える時がくるから。どうしても、一度だけ……あなたに触れたかった」灯の体は、透き通るように薄くなっていた。妖は人の想いを受けすぎると、その輪郭を保てなくなる。彼女は蒼也を想い続けることで、自らの魂を削り、この世に留まっていたのだ。
蒼也は息を呑んだ。自分を想って、滅びゆく妖がいる。その事実に、胸が締め付けられるような衝撃を受けた。自分はただの中学生に過ぎない。しかし、
今ここで一人の妖が、自分への想いのために命を散らそうとしている。その現実に、恐怖よりも先に、言葉にできない哀しみが込み上げた。
「どうして……そんなこと、してくれたんだ。僕のために消えるなんて、そんなの、悲しすぎるよ。
僕は何一つ、君に返せるものなんてないのに」
「好きだからです。あなたの真っ直ぐな瞳も、母を助けようと必死に戦うその背中も
……全部、全部愛おしかった。たとえ私が消えても、あなたの中に、私の存在した記憶が
少しでも残れば、それでいいのです。それが、私にとっての最大の願いですから」
灯が蒼也の頬にそっと触れようと手を伸ばした。しかし、彼女の震える手は、蒼也に届く直前で、
光の粒子となって崩れ始めた。
「触れられないのですね……人間と妖、最初からわかっていたことなのに。
ああ、もっと早く、あなたの声を聞いていれば……」
灯の瞳から、一粒の涙が零れた。それは、この世の何よりも重く、切ない、最後の輝きだった。
蒼也は、呪符を握りしめていた手が震えるのを止められなかった。討伐すべき対象として見ていた妖が、今、自分のために消えようとしている。それは陰陽師としての修行以上の、あまりに残酷な現実だった。
「母さん!」
蒼也が振り返ると、レイカは拳銃を鞘に収めていた。彼女もまた、
灯の切なる想いを感じ取り、その瞳に静かな哀愁を湛えていた。レイカは母として、
蒼也の恋の行方を見守ることを選んだのだ。
「蒼也。……その想いを、刻みなさい。悲しみを知ることも、陰陽師として、そして一人の
人間として強くなるための糧よ。彼女の想いを、決して無駄にしないこと」
蒼也は意を決して、消えかけの灯の手を掴んだ。その手は、氷のように冷たかったが、
確かにそこに存在していた。触れた瞬間、灯の体が激しく光り、二人を包み込んだ。
それは、妖と人間が初めて、そして最後に繋がる、奇跡の瞬間だった。二人の魂が交差し、
蒼也は彼女の記憶のすべてを受け取った。
「温かい……。ああ、最後に、本当に……幸せでした。あなたに会えて、本当によかった」
灯は満足げに微笑んだ。彼女の体は、蒼也の体温を求めたまま、ゆっくりと光の中に溶けていった。
「灯……! 行かないでくれ……!」
蒼也が叫んだ時には、そこにはもう、誰もいなかった。ただ、一輪の薄紅色の花が、夜風の中で
儚げに揺れていた。それは彼女の愛の証。
霧が晴れ始めた。空には、うっすらと朝の光が射し込み始めていた。レイカが蒼也の肩に
そっと手を置いた。
「行くわよ、蒼也。……強くなったわね。彼女も、あなたの腕の中でなら、本望だったはずよ」
蒼也は頷き、花を大切そうに胸に抱いた。母の拳銃の冷たさとは違う、灯のぬくもりが、まだ指先に残っていた。
中学生の蒼也には、まだ世界は冷たく、厳しい場所だ。
妖を討つという宿命からは逃げられない。
けれど、この夜、蒼也は初めて、守るべきは妖の命を奪うことではなく、その先に広がる
切ない想いの輝きであることを知った。
月明かりの下、母と息子の足音が、村の静寂に溶けていく。蒼也の胸の奥で、灯という名の妖が教えてくれた恋の痛みが、いつまでも優しく、確かに鼓動していた。
たとえ二度と会えなくても、彼女が遺した薄紅色の花は、蒼也が大人になるまで、ずっと彼の心を照らし続けるだろう。
その花は、決して枯れることはない。




