表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
46/57

第四章 成長 第四十六話 スケッチブック

第四章 成長 第四十六話 スケッチブック


深い山間に抱かれたその村は、夏になると紫陽花の青が目に痛いほどに映える。


神代蒼也は、背中に背負った木剣と懐の呪符の束の重みを確かめながら、湿った山道を歩いていた。


中学生の蒼也にとって、その重みは「半人前」という烙印のようなものだった。


「蒼也、気を抜かないで。この村に漂う霧は、ただの天候じゃないわ」


母、神代レイカの声は鋼のように硬い。

腰のホルスターに収められた魔導銃が、鈍い銀の光を放っている。

彼女は妖を『視る』だけでなく、その拳銃から放たれる妖力弾で、

無慈悲なまでに消し去る凄腕の陰陽師だ。


今回の討伐対象は、村の古い石造りの水車小屋に巣食う『水屑みずくずの妖』。

村人たちが相次いで、大切な記憶の断片を失うという奇妙な被害が出ていた。


「母さん、あそこだ」


蒼也が指差した先、水車小屋の陰に、女がいた。


長い黒髪を濡らし、薄い藍色の着物を纏ったその女は、

まるで水面に浮かぶ月影のように儚げだった。

しかし、彼女の手の中にあるものを見て、蒼也は息を呑んだ。


それは、ボロボロになった一冊の『スケッチブック』だった。


女はそれを、誰かに見せるように、

何度も何度もページをめくっている。

だが、どのページも水に濡れ、絵の具が溶け出して、

何が描かれていたのか判別できない。


「……あの方の、景色」


女の掠れた声が聞こえた。


レイカが躊躇なく銃を抜き、引き金を引こうとする。


「待って、母さん!」


蒼也は反射的に母の銃口を押し下げた。レイカが眉をひそめる。


「蒼也、迷いは命取りよ。

あれは記憶を喰らい、自分の中の虚無を埋めようとしている危険な存在だわ」


「違う。見てよ、彼女……何かを必死に守ろうとしてるんだ」


蒼也は慎重に一歩を踏み出した。

妖である女は、蒼也の気配を感じ取ってもなお、

スケッチブックを胸に抱きしめ、うつむいたまま震えている。


「君は、誰を待っているんだ?」


蒼也の問いかけに、女がゆっくりと顔を上げた。

その瞳は濁っておらず、どこか遠い過去を映し出していた。


「……あの人は、この村の冬を描きに来たの。

雪が降る中、私の姿を……『綺麗だ』と言って、描いてくれたの」


彼女の言葉には、妖特有の狡猾さはなく、

ただ一人の人間を恋い慕う、純粋な痛みだけが宿っていた。


かつてこの村に逗留した、若き絵描き。

彼は村を去る時、彼女にスケッチブックを残していった。

だが、時が経ち、絵描きが老いて死んだことも、

彼が自分を忘れてしまったことも、彼女は理解できなかった。

彼女にとって、愛した人の筆の温度は、永遠に今のままだったのだ。


女がスケッチブックをめくるたび、

村人の記憶が霧のように彼女の元へ流れ込んでいく。

それは彼女が悪意で奪ったのではなく、彼の絵を、彼の記憶を、

自分の中で再生させるために、必死に『彩り』を集めていたのだ。



「そんなことをしても、彼は帰ってこない。君の傷が深くなるだけだよ」


蒼也の言葉に、女の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。

その涙は、地面に触れると小さな紫陽花の花となって咲いた。


「……知っているの。でも、彼の言葉を忘れたくなかった。

彼が私を見て笑った、あの午後の陽だまりさえ忘れてしまえば、

私は、ただの水屑に戻ってしまう……」


蒼也の胸が締め付けられる。


自分もまた、陰陽師としての修行で孤独を感じる時、

母の背中を追いかけることで自分を保っている。

彼女のその孤独は、他人事とは思えなかった。


「母さん、僕に、少しだけ時間を……」


レイカは沈黙し、銃口を下げた。

彼女の瞳には、厳しさの中に、母としての静かな慈愛が宿っていた。


「……やりなさい。

ただし、最後の一瞬を見届けなさい」


蒼也は懐から、特別な呪符を取り出した。それは妖を浄化するものではなく、

持ち主の想いを『視覚化』する護符だった。

蒼也はそれを、女が抱えるスケッチブックに貼り付けた。


「これを見て。君が見たかったのは、これだろう?」


護符が淡く光り、水車小屋の壁に、数十年前に描かれた絵が投影された。


雪景色の中に立つ、若かりし頃の彼女の姿。

その横には、楽しげに筆を走らせる若き絵描きの背中があった。


「ああ……」


女は、その絵を愛おしそうに撫でた。


光の中で、彼女の姿が本来の姿——妖ではなく、

かつて愛された時の『美しい女』の姿に還っていく。



「私、ずっと見ていたかった……。

彼が私のために描いてくれた、この世界を」


彼女の体は、透き通るような光の粒子となって崩れ始めた。


憎しみも、怒りも、何もない。

ただ、一人の人間を深く愛したという記憶だけが、彼女を最後の一瞬まで美しく彩っていた。


「さようなら。……また、別の季節に、会いましょう」


彼女は最期に、蒼也に向かって優しく微笑み、そのまま夜風に溶けて消えた。


あとに残ったのは、すっかり乾き、真っ白になったスケッチブックだけだった。


蒼也は、その場に膝をついた。目から溢れる涙を拭うことさえできなかった。


妖が、人の恋心を抱き続けることは、これほどまでに切なく、そして美しいものなのか。


「……泣きすぎよ、蒼也」


背後から母の声が聞こえた。

振り返ると、レイカは少しだけ寂しそうな、しかし誇らしげな笑顔で立っていた。


「彼女は、救われたわね。最後まで、愛する人の景色の中にいられたのだから」


レイカは蒼也の頭を乱暴に、けれど優しく撫でた。


「いい勉強になったわね。……妖を討つということは、その命の最後を見届けるということ。

その痛みを知った貴方なら、きっと、誰よりも優しい陰陽師になれる」


二人は水車小屋を後にした。


村には、穏やかな夜風が吹き抜けていた。


蒼也は、夜空を見上げた。


きっと、あの妖の女も、今頃は愛した人の待つ場所へ還っているだろう。


自分はこれからも、母と共に、この村に巣食う妖たちの物語を背負っていくのだ。


蒼也は拳を強く握りしめた。


それは、次に討つ妖の命に対して、最大限の敬意を払うための決意だった。


明日の朝になれば、村人たちは何も覚えていないだろう。

だが、蒼也の心には、紫陽花の夜に消えていった、

一人の妖の切ない恋が、一生忘れることのない景色として刻まれていた。



「帰ろう、母さん」


「ええ。腹が減ったわね。今夜は、貴方の好きな煮物よ」


母の背中を追いながら、蒼也は小さく笑った。


この過酷な修行の日々も、誰かの想いを守るためなら、少しだけ悪くない。


夏の夜の匂いの中で、蒼也の足取りは、いつになく軽やかだった。


挿絵(By みてみん)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ