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第四章 成長 第四十五話 またね

第四章 成長 第四十五話 またね


薄暗い夕闇が、村を塗りつぶそうとしていた。


人々は夜ごと悪夢にうなされ、生気を奪われていた。

しかし、それが、妖自身の意思なのかは、誰にも、分からなかった。


「蒼也、準備はいい?」


隣で囁くのは、母であるレイカだ。

彼女は愛用の回転式拳銃のシリンダーを指先で弾き、

冷徹なまでの冷静さで囁いた。

彼女の拳銃には、霊力を練り上げた特殊な弾丸が込められている。


「……うん。でも、母さん。あいつ、本当に……」


蒼也の視線の先には、一人の女がいた。


月明かりに照らされた彼女の姿は、この世のものとは思えないほど美しい。

しかし、その肩からは禍々しい黒い霧が立ち昇り、

背中には蜘蛛のような無数の影が蠢いている。


その妖は、村の入り口にある古い祠を拠点に、

夜な夜な人々の生気を吸い取っていた。


レイカがゆっくりと立ち上がる。

その瞬間、妖の頭が不自然な角度でこちらへ向いた。


「見つけた」


妖の口から発せられたのは、風の音のような冷たい声だった。


黒い霧が爆発的に広がり、廃屋の壁を粉砕する。レイカは瞬時に引き金を引いた。


「蒼也、呪符を!」


母の叫びに、蒼也は反射的に懐から呪符を取り出し、宙に放り投げる。


『急急如律令』


蒼也が印を結び、霊力を流し込む。

呪符が黄金の鎖となって妖の動きを縛り上げた。

しかし、相手は古強者の妖だ。黒い爪が鎖を引き裂き、レイカの肩を掠める。


「くっ……!」


レイカが後退る。蒼也は焦った。母は強い。

だが、相手は次元が違う。

蒼也の力では、この巨大な妖を封印することはできない。


その時だった。


縛り上げられたはずの妖が、突如として動きを止めた。


「……蒼也、と、言ったか」


妖が、ぼろぼろになった服の裾を揺らし、蒼也を真っ直ぐに見つめた。

その瞳は、先ほどまでの殺意に満ちた赤色ではなく、

透き通るような瑠璃色に変わっていた。


「どうして、その顔でこちらを見るの」


妖の声が震えていた。


蒼也は呆然とした。なぜ、妖が自分の名前を知っているのか。なぜ、

涙のような光を湛えているのか。


「お前は、あの日……森で迷っていた私を助けてくれた、あの少年だろう」


蒼也の記憶の奥底が揺れた。


幼い頃、一度だけ、山で迷子になったことがある。誰もいないはずの深い森で、

一人の少女に出会い、帰り道まで手を引いてもらった記憶。あの日、彼女は「またね」と笑って消えた。


あれが、この妖だったのか。


「私はあの日から、ずっとお前を想っていた。

人ではない私には、人の温もりは届かない。

それでも、お前の成長を影から見守ることだけが、私の生の意味だった」


妖の体から黒い霧が剥がれ落ちていく。

それは彼女の魂を蝕む呪いそのものだった。

彼女は人を襲うことを望んではいなかった。

ただ、人間としての蒼也の側に居たいという強すぎる執着が、

彼女を怪物へと変えてしまったのだ。


「……だめだ、もう消える。お前を傷つけるくらいなら、私は……」


「待ってくれ!」


蒼也が走り出した。

母のレイカが「蒼也、下がれ!」と制止する声も聞こえなかった。

蒼也は、黒い霧に侵食され、崩れ落ちようとする彼女の細い肩を抱きしめた。


冷たい。

氷のように冷たい体温。それでも、彼女の鼓動は確かにあった。


「君は、僕を助けてくれた。ずっと、僕を見守ってくれていたんだね」


「……あなたは、中学生の呪術師。私は、討伐されるべき妖。

どうして、そんなに優しくするの」


彼女は泣いていた。


その涙は、彼女が唯一残した「人間としての心」だった。


蒼也は懐から、もっとも純粋な浄化の呪符を取り出した。

それは、妖を消滅させるものではない。深い傷を癒し、穢れを払う、古式の秘術。


「母さん、頼む。彼女を……救いたい」


レイカは拳銃を下げ、静かに息を吐いた。

彼女の眼差しには、母としての深い慈愛が宿っていた。


「……やりなさい。神代の誇りにかけて、全力を出しなさい」


蒼也は印を結んだ。


「天地清明、神威帰元。穢れを祓い、魂を還せ――神代封呪秘奥・浄魂帰還!」


柔らかな光が二人を包み込んだ。


妖の姿が、次第に少女のそれに変化していく。

黒い霧は霧散し、彼女の肩を縛っていた呪いの鎖が音を立てて砕け散った。


「蒼也……」


少女は、蒼也の胸元で小さく微笑んだ。


その笑顔は、かつて森で見たものと少しも変わらない、暖かなものだった。


「ありがとう。やっと、あなたに触れることができた」


朝日が昇り始める。


彼女の体は、光の粒子となって空へと溶けていった。


最後に残ったのは、彼女が大切に持っていた一輪の野花だった。


静寂が村を包む。


蒼也は、空を見上げて立ち尽くしていた。


目尻から一筋の涙が零れ落ちる。それは、悲しみではない。

確かな絆が繋がったという、温かな証だった。


「蒼也」


背後からレイカが歩み寄り、そっと肩に手を置いた。


「彼女は、消えたんじゃないわ。

あなたの心の中に、ずっと生き続けるのよ」


蒼也は頷き、その野花を優しく握りしめた。


神代蒼也の呪術師としての道は、まだ始まったばかりだ。しかし、彼はもう迷わない。


蒼也は野花を胸元へそっとしまった。


もう二度と、この想いを忘れない。


朝日に照らされたその横顔には、迷いはなかった。

遠くの山々が黄金色に輝き、村の朝が始まる。


昨日とは違う、希望に満ちた新しい一日が、彼を待っていた。

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