第四章 成長 第四十三話 月下美人
第四章 成長 第四十三話 月下美人
霧の深い山あいに、時が止まったかのような古い村があった。
その村には、夜な夜な川辺から聞こえる泣き声と、やがて始まる
美しい笛の音が聞こえるという不思議な噂があった。
また、その村には、数十年前に絶滅したといわれる「銀色の月下美人」
が咲く夜、不思議なことが起きるという言い伝えも残されていた。
神代蒼也は、陰陽師である母・レイカに付き添い、
その調査のために村を訪れた。蒼也はまだ中学生だったが、
人には見えない妖を見通す鋭い目を持っていた。一方のレイカは、
妖力を込めた黒鉄の拳銃を操り、迷える妖を導く凄腕の陰陽師である。
「蒼也、川辺は霊気が溜まりやすい。足元に気をつけなさい」
レイカは、愛銃のハンマーを起こし、静かに夜道を進んだ。
川沿いの柳の木の下、蒼也の瞳には、哀しげに佇む一人の女性の姿が映った。
長い黒髪を揺らし、白い着物をまとった彼女は、この川の主である妖だった。
そして、そのすぐ傍らには、一人の青年が座り込んでいた。
彼は、かつて村で一番の笛吹きであったが、病によって視力を失い、
生きる希望をなくしていた。
「母さん、あれは……」
蒼也が指さした先では、妖が、若者の傍らで震えるように寄り添っていた。
レイカは銃を構えたが、すぐに動きを止めた。妖から殺気は感じられず、
むしろ、若者の頬にそっと触れるその指先から、眩いほどの慈しみが
溢れ出していたからである。
「……妖が、人間に恋をしている」
レイカは静かに銃をホルスターへ戻した。
調べていくうちに、二人の過去が明らかになっていった。妖は若者が笛を吹く姿に
ずっと憧れ、彼が病に倒れてからは、自らの妖力を少しずつ彼に分け与えることで、
彼の心を「記憶の風景」で満たし、暗闇の中でも絶望しないように支え
続けていた。しかし、妖力を使いすぎた彼女の体は、今や半透明になり、
この世から消えゆく寸前であった。
「私が消えても、彼が笛を吹く喜びを思い出せれば、それでいいのです」
妖は悲しげに微笑んだ。若者は、目の前に誰かがいることを感じながらも、
その正体を知る由もない。
蒼也は、その切ない光景を見て胸を締め付けられた。
「母さん、何か方法は……彼に、彼女の想いを届ける方法はないの?」
レイカは常に持ち歩いている神代家秘伝の古文書を静かに開いた。
「あるわ。妖力と人間の情念を循環させ、ひとつの『奇跡』として結実させる術。
……けれど、それは彼女が妖としての姿を失い、
二度とこの世に留まれなくなることを意味する」
「それでもいい、彼を救いたい」と願う妖の強い意志を感じ、
蒼也とレイカは儀式を始めた。
蒼也が四方に呪符を打ち込み結界を張ると、レイカは銃の力を極限まで高め、
若者と妖の間に光のエネルギーを流し込んだ。
川辺が真っ白な光に包まれた。
妖の姿が、光の粒子となって若者の体の中へと吸い込まれていった。若者の瞳に、
かつて見ていた山の緑、空の青、そして彼女の微笑みが鮮やかに蘇った。
光が収束すると、そこには、妖の姿はなかった。
若者はゆっくりと瞼を開けた。ずっと白濁していた瞳が、目の前の川のせせらぎ、
揺れる柳、そして、数十年前に絶滅したはずの「銀色の月下美人」が一輪、
誇らしげに花開いているのをしっかりと捉えていた。
「……見える。僕に、世界が見えるんだ」
若者は震える手で、目の前に咲く銀色の花に触れました。彼女の姿は見えなく
なっても、その温もりは彼の心の中に、そして彼の新しい瞳の中に永遠に生き続ける。
若者は懐から笛を取り出し、今までで一番美しい旋律を奏でた。
それは、妖と人が互いを想い合い、ようやく一つの命として結ばれたことを告げる、
祝福の調べであった。
レイカは、満足げに夜空を見上げた。
「彼女は妖であることをやめて、彼の瞳そのものになったのね」
蒼也は、笛の音を聴きながら、胸の奥から温かいものが込み上げるのを感じた。
川沿いの銀色の月下美人が、月光を浴びてより一層輝いていた。
「ハッピーエンドだね、母さん」
「そうね。……さあ、帰りましょう。明日もまた、誰かの祈りに応えるために」
二人は静かな足取りで、村の明かりの中へと歩いていきました。
今もどこかで聞こえる笛の音は、もう二度と離れることのない、
二人の魂の会話となって、村を優しく包み込んでいた。
第四十三話 了




