第四章 成長 第四十一話 守るべき温もり
第四章 成長 第四十一話 守るべき温もり
その日の夕刻、村の空気はいつもより重く、湿っていた。
神代蒼也は、母・レイカの背中を追いながら、古びた社の石段を登っていた。彼らの目的は、村の結界の要石に貼られた呪符の貼り替えである。
「蒼也、今日は空気が違うわ。気配に集中して」
レイカの鋭い声に、蒼也は背筋を正す。彼女の肩には、先日の戦いで負った傷の痕がまだ薄く残っている。それが目に入るたび、蒼也の胸は締め付けられるような痛みを覚える。だからこそ、彼は誰よりも早く気配を察知した。
「……ッ!」
背後の茂みから、どす黒い霧が噴出した。妖だ。古木を操る者とは違い、それは幾千もの怨念が絡み合って生まれた「飢餓霧」だった。瞬く間に周囲を包囲され、彼らは社の中腹に取り残される。
「蒼也、防御は私に任せて。あなたは結界の要に呪符を! それが壊されれば、この村は飲み込まれる!」
レイカはそう言うと、独学で編み出した術式を地面に展開した。彼女には霊力がない。だからこそ、彼女の術は極めて緻密だ。指先から血が滲むほどに空中に文字を書き、計算し尽くされた配置で防御壁を構築する。
しかし、今回の妖は強大すぎた。防御壁がバキバキと音を立てて亀裂が入る。
「くっ……!」
レイカが膝を折る。限界だった。
蒼也は走り出した。結界の要石へと向かうその道筋にも、無数の影が殺到する。
(お母さんが、命を削って時間を稼いでくれている……!)
蒼也の掌の中で、呪符が熱を帯びる。恐怖はもうなかった。あるのは、この温もりを守りたいという、ただ一つの衝動だけだ。
妖が蒼也の肩を切り裂く。激痛が走った。だが、蒼也は止まらない。彼は血で汚れた呪符を握りしめ、要石に飛びついた。
「神代の血に誓う! 鎮まれ!」
力一杯、魂を込めて呪符を叩きつける。
その瞬間、蒼也の身体の中から、今まで感じたことのない熱い何かが噴き出した。それは彼の未熟な霊力ではない。隣で限界を超えて戦う母の「知識」と、二人で過ごした日々の「絆」が共鳴し、奇跡のような光となって村を照らした。
闇が悲鳴を上げ、霧のように消えていく。
静寂が戻った夜の社。
蒼也は要石に手を置いたまま、力なく崩れ落ちた。肩からの出血が激しい。
「蒼也!」
駆け寄ってきたレイカの手が、蒼也の頬を包み込んだ。彼女の顔は蒼白で、震えていた。
「なんてことを……! あなたが死んでしまったら、私は……」
レイカの目から、こぼれ落ちるものがあった。あの日、死の淵で微笑んでいた母が、今は子供のように泣きじゃくっている。彼女が何よりも恐れていたのは、自分の命ではなく、蒼也の命だったのだ。
「ごめん、お母さん……でも、守れたよ」
蒼也は弱々しく笑った。
レイカは蒼也を抱きしめる。その腕は強く、温かい。二人の心拍が重なり、互いの生を確かめ合う。
「……あなたは、強くなったわね。でも、二度とあんな危険なことはしないで。……私にとって、あなたは世界そのものなのよ」
その言葉に、蒼也は視界がぼやけるのを感じた。それは戦いの痛みによるものではない。自分をこれほどまでに想ってくれる人がいるという、溢れ出る幸福感だった。
数日後。
村は穏やかな朝を迎えていた。蒼也の傷は順調に癒え、彼は再び母と並んで台所に立っていた。
「蒼也、卵は火を通しすぎないように。出汁の香りが飛ばないわ」
「うん、わかってる。……ねえ、お母さん」
「ん?」
蒼也はまな板の上で刻んでいたネギを止め、母の横顔を見た。
「これからも、ずっと一緒に修行してね」
レイカは少し驚いたように目を見開き、それから柔らかく微笑んだ。
「ええ、もちろん。あなたが一人前になっても、私はずっと隣にいるわ」
朝の光が差し込む台所に、味噌汁の香りが満ちる。
特別なことは何もない。けれど、この何気ない日常こそが、二人が命を懸けて守り抜いた宝物だった。
蒼也は深く息を吸い込んだ。
肩の傷跡は、母と結ばれた絆の証として守る強さを忘れないための証となった。
窓の外には、命の芽吹きを感じさせる青空が広がっていた。二人の足音は、これからもずっと同じリズムで、この村の明日を歩んでいく。




