表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
40/59

第四章 成長 第四十話 決意

山に囲まれた小さな集落は、今夜、奇妙な静寂に包まれていた。


神代蒼也は、冷え切った夜風に震えながら、隣を歩く母・レイカの背中を見つめていた。


蒼也は中学生。本来なら教科書を抱えている年頃だ。

だが、彼の手にあるのは血のような赤い文字が刻まれた呪符だった。

神代家は代々、あやかしを祓う陰陽師の家系だが、蒼也の力は未熟だった。

複雑な術式を操る式神や結界は展開できず、

ただひたすらに、父から受け継いだ呪符を的確に貼り付けることしかできない。


「蒼也、集中して。……来るわ」


レイカが足を止めた。

彼女は陰陽師としては異端だった。

霊力もなければ、特殊な眼も持っていない。

ただ、古書を読み漁り、数千の呪文を暗記し、

その膨大な知識と経験のみで妖と対峙してきた。


闇の中から、幹には無数の人の顔が浮かび、枝先から黒い瘴気が滲み出ていた。


凄まじい妖気が周囲の温度を急激に下げ、蒼也の指先から感覚を奪う。


「蒼也、あの一点を狙いなさい! そこに呪符を叩き込めば、動きが止まる!」


レイカが叫んだ。

だが、妖の動きはあまりに速かった。

レイカが組んだ結界が、妖の一撃で脆くも崩れ去る。


「お母さん!」


レイカは回避する間もなく、妖の枝のような腕に弾き飛ばされた。

鈍い音がして、彼女が闇の中に消える。

蒼也の心臓が早鐘を打った。

恐怖で足がすくむ。

自分には、母のような経験も、機転を利かせる冷静さもない。

ただの「呪符貼り」の道具でしかないのだと。


しかし、地面に倒れ伏すレイカの姿が目に入ったとき、蒼也の中で何かが弾けた。


(……僕が、やるしかないんだ)


蒼也は呪符を握りしめ、地面を蹴った。


妖の枝が蒼也の頭上から振り下ろされる。

死の直感が脳裏を駆け巡った。

だが、蒼也は逃げなかった。


蒼也は空中で身体を捻り、妖が隙を見せた一瞬、その中心部へ呪符を叩きつけた。


――鈍い光が走り、巨大な妖が断末魔を上げて霧散していく。


静寂が戻った。


蒼也は荒い息をつきながら、急いで母の元へ駆け寄った。


「お母さん! お母さん、しっかりして!」


薄暗い月明かりの下、レイカは肩で息をしながら、ゆっくりと上半身を起こした。

肩から血を流しているが、瞳には確かな意識が戻っている。


「……成功したのね。今の……見事だったわ」


レイカの肩の傷は深かったが、致命傷ではない。

彼女は蒼也の震える肩を、優しく、しかし強く抱きしめた。


「お母さん……っ、死ぬかと思った……! もう、怖いよ……」


蒼也は堪えきれず、子供のように泣き出した。

母を失うかもしれないという恐怖、自分の無力さ、そして最後には勝利できた安堵。

それらが混ざり合い、熱い涙となって溢れ出した。


レイカはそんな息子の背中を、何度も何度も撫でた。


「ええ、怖かったでしょうね。でも、あなたは逃げなかった。

神代の人間として、最後まで自分の役割を果たしたのよ」


彼女は蒼也の頬に手を添え、優しく微笑んだ。


「私は、あなたを誇りに思うわ。

でもね、蒼也。力がないからこそ、私たちは知恵を絞り、互いを守るの。


あなたは今日、その本当の意味を理解したのね」


その言葉に、蒼也は深く頷いた。


村の夜空に、遠くから村祭りの鐘の音が聞こえてきた。


それはあまりに穏やかで、先ほどまでここで起きた惨劇が嘘のような、

残酷なほど美しい響きだった。


数日後。


二人はいつものように、村の外れにある古い道場で修行をしていた。


レイカの肩にはまだ包帯が巻かれている。しかし、彼女はいつもの厳しい口調で言った。


「蒼也、呪符の貼り方が甘いわ。


今の速度では、次は仕留められない」


「わかってるよ、お母さん」


蒼也は苦笑しながらも、再び呪符を構えた。


以前と違うのは、二人の間に流れる「絶対的な信頼」だ。


以前は母に従うだけだった蒼也が、今は母の術式を理解し、


次の展開を予測して呪符を準備している。


修行の合間、二人は縁側に座り、茶を飲んだ。


蒼也は、あの日、恐怖で逃げ出そうとした自分を思い出す。


そして、今こうして隣に母が座っていることの奇跡を噛み締めていた。


「母さん、僕、もっと強くなるよ。今度は、母さんを絶対に傷つかせないくらいに」


レイカは湯呑みを置き、優しく微笑んだ。


「ええ。期待しているわ。でも、忘れないで。どんなに強くなっても、二人の時は、私たちはただの親子よ」


その言葉を聞いた瞬間、蒼也の目から、またしても熱いものがこぼれ落ちた。


それは、恐怖の涙でも、無力感の涙でもない。


母が隣にいるという、この上ない幸福の涙だった。


「……うん。お母さん、ありがとう」


蒼也の震える声に、レイカは何も言わず、ただ優しく息子の頭を撫でた。


村に吹き抜ける風が、二人の肩を優しく揺らす。


夕暮れの赤色が、二人の姿を影絵のように浮かび上がらせる。


神代家の夜は、今日も穏やかだった。


けれど、その奥底には、母と子が共に歩むという、


何よりも強い絆が静かに、そして確実に息づいている。


蒼也は空を見上げた。夕闇の中に一番星が輝いている。


もう、何も怖くない。母という道標が、すぐ隣にあるのだから。


蒼也は立ち上がり、道場へと戻った。


その足取りは以前よりもずっと力強く、そして、母を守り抜くという決意に満ちていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ