第四章 成長 第三十九話 手鏡
第四章 成長 第三十九話 手鏡
山間の村に再び霧が降りた夜だった。
廃村となった集落の入口で、レイカは足を止めた。
花に囲まれ、一人の少女が手鏡を抱いて座っていた。
少女は真っ白な着物を纏い、膝の上に古い手鏡を置いていた。
彼女の周りには、まるでお供え物のように、四季折々の花が丁寧に飾られている。
「……ねえ、何をしているの?」
レイカは警戒しつつも、静かに声をかけた。
彼女には、霊視の力はない。
だからこそ、相手の顔色、仕草、その場に漂う空気の重さからすべてを判断する。
少女の顔には妖の邪気はなく、ただ深い悲しみと、形容しがたい静寂だけがあった。
少女は顔を上げ、悲しげに微笑んだ。
彼女は口をきかない。
ただ、手鏡をレイカの方へ差し出した。
鏡面はひどく曇っていたが、よく見ると、鏡の中にはこの廃村が活気に満ちていた頃の、
人々の穏やかな日常が映し出されていた。
レイカは直感した。
これは妖ではない。地縛霊に近い何かが、執念で現世に留まっているのだと。
少女は、かつてこの村に住んでいた娘だった。幼い頃、流行り病で両親を亡くし、たった一人でこの村の鏡台の前で、いつか両親が迎えに来るのを待っていたという。
鏡は、亡き母が遺した唯一の形見だった。
彼女は鏡を磨き続けることで、両親の面影を追い続け、
いつしか己の存在さえも鏡の中に溶け込ませていたのだ。
「ずっと、ここで待っていたのね」
レイカは少女の隣に座った。
特殊な能力のない彼女にできるのは、ただ寄り添うことだけだ。
レイカは手鏡を受け取り、懐から取り出した布で、丁寧に表面を磨き始めた。
鏡が磨かれるたびに、少女の表情が少しずつ晴れていく。
鏡の中の景色が鮮明になるにつれ、少女が抱えていた孤独もまた、
鏡の中に吸い込まれていくようだった。
「もういいのよ。お父様とお母様は、きっとあなたを誇りに思っているわ。
こんなにも大切に、思い出を守り続けたんだもの」
レイカの言葉が届いたのか、少女はゆっくりと立ち上がった。
鏡の曇りが完全に晴れた瞬間、その鏡面には、両親に抱きしめられ、
今にも泣き出しそうなほど幸せそうな少女の姿が映り込んだ。
少女はレイカに向かって深く会釈をすると、光の粒子となって鏡の中に吸い込まれていった。
手鏡は冷たくなり、ただの静かな物言わぬ鏡に戻った。
レイカは立ち上がり、静まり返った廃村を見渡した。
彼女は霊視も、残滓を読み解く力も持たない。
だが、人の想いの重さを測る心だけは、誰よりも繊細に研ぎ澄まされていた。
彼女は鏡を、廃村の真ん中にある古井戸にそっと沈めた。
誰にも邪魔されない場所で、彼女たちが永遠に再会を楽しめるように。
「……任務終了、ね」
レイカは呟き、霧の晴れた夜道を歩き出した。
月明かりが、彼女の影を長く地面に伸ばしている。
レイカは、今回も討魔庁には「魔を討伐した」とだけ記すだろう。
それは、彼女なりの優しさだ。
彼女は振り返らない。
ただ、風に揺れる花々の香りが、かつての家族の温もりを伝えているような気がした。
山あいの村に、静かな夜が訪れる。
誰にも気づかれず、誰にも語られることなく、ただ愛された記憶だけがその場所に残り続けている。
神代レイカは、孤独に寄り添い続ける陰陽師として、また次の夜道へと足を向けるのだった。




