第四章 成長 第三十八話 人形
第四章 成長 第三十八話 人形
霧の深い山あいに、その村はあった。
討魔庁から派遣された神代レイカは、村外れに立つ古びた鳥居の前で立ち止まった。
彼女の使命はただ一つ。
この地で目撃されたという「人食いの魔」を討伐することだ。
村人たちは皆、声を潜めて語った。
夜な夜な、深い霧の中からすすり泣くような声が聞こえ、
その声を聞いた者は翌朝、姿を消していると。
レイカは腰の霊銃に手を添え、警戒を強めながら深い霧の中へ足を踏み入れた。
数日間の追跡の末、レイカは村の最奥、崩れかけた社の裏手にその存在を追い詰めた。
巨大な影が、湿った土の匂いの中に揺らめいている。
「そこまでよ、妖!」
レイカは鋭く叫び、二丁の霊銃を握り締め、銃を放とうとしたその瞬間、影がふらりと揺れた。
それは恐ろしい形相の妖ではなく、ぼろぼろの着物を纏った、一人の老婆だった。
老婆は驚いたようにレイカを見上げると、その枯れ木のような手で、
抱えていた「何か」を庇うようにして背を向けた。
レイカは目を疑った。老婆が必死に守っていたのは、妖の死骸でもなければ、人肉でもない。
それは、古い、壊れかけた木彫りの人形だった。
レイカは眼を開いた。本来、妖の正体を暴き、その性質を見抜くための瞳だ。
しかし、この老婆を視ても、霧のような霊気の塊しか映らない。彼女には妖の残滓を読む能力など備わっていなかった。
だからこそ、レイカは常に泥臭く、現場の証拠と理屈で妖を追ってきたのだ。
「……何をしているの」
レイカの問いかけに、老婆は口をパクパクと動かした。言葉にはなっていない。
しかし、彼女の瞳からは、大粒の涙がとめどなく溢れ出していた。
レイカは冷徹に周囲を観察した。地面には荒らされた跡はない。
老婆の足元には、朽ちた木片と、必死に土を掘り返したような爪痕があるだけだ。
――違う。これは、妖の仕業ではない。
レイカは霊銃を収めた。霊感に頼らない彼女のレイカは、老婆の震える手と、
人形に注がれる異常なまでの執着を見逃さなかった。レイカは老婆の隣に座り込み、
その震える肩に手を置いた。
「……話して。私には聞こえないけれど、何があったのか、教えてくれない?」
老婆は、レイカの差し出した手を見て、ゆっくりと人形を差し出した。
それは言葉の代わりだった。レイカは人形を受け取り、その精巧な彫り込みと、
使い古された木肌に触れた。
数十年前。この老婆――名はハナという――は、戦地へ赴く夫と別れた。
夫は村の彫り物師で、出征の前夜、ハナに一体の人形を贈った。
「俺だと思って、毎日話しかけてくれ。そうすれば、魂は必ずここへ帰ってくる」と。
夫は帰らなかった。
終戦から数年が経ち、村の誰もが夫の死を告げたが、ハナだけは信じなかった。
レイカは、老婆が人形に話しかけ続けていたという村人の噂を思い出した。
老婆は、死んだ夫の魂がこの人形に宿っていると信じ、朽ちゆく人形を治そうと、夜な夜な森の奥で「人形に合う木」を探して土を掘り返していたのだ。
村人が消えていたのは、老婆の執着が生んだ霧に迷い込んだ者たちが、恐怖のあまり谷へ転落していただけのことだった。
老婆にとって、その人形は夫そのものだった。
壊れゆく人形を修復するため、彼女は己の生命力を削り、記憶を売り払い、
ただ人形を撫で続けた。
「……あなた、これをずっと」
レイカは人形の背に彫られた小さな『ハナへ』という文字をなぞった。
老婆は満足げに微笑んだ。その瞬間、レイカは悟った。
老婆の命が尽きようとしていることを。彼女は、ただ夫に会いたかった。
それだけの願いが、この深い霧を生み出し、村を閉ざしていたのだ。
レイカは陰陽師としてではなく、一人の人間として、
人形のひび割れを自身の霊力でそっと補修した。
人形が微かに温かくなった。
その瞬間、老婆は安心しきったようにレイカの肩に寄りかかった。
「……帰ってきた、のね」
老婆の声が、ハッキリと聞こえた。
それは霧を払い、空に陽光を呼び込むような清らかな響きだった。
ハナの身体は光の粒子となって、少しずつ空へと昇っていく。
レイカは涙を拭うこともせず、その光景を見守った。
妖を討つのではなく、ただ、迷子を帰すお手伝いをしただけだ。
霧は完全に消え、朝の光が社を照らしている。そこには、もう誰もいなかった。
ただ、地面に落ちた古い人形だけが、静かに横たわっていた。
レイカが拾い上げると、木肌は驚くほど滑らかで、まるで呼吸をしているかのように温かい。
レイカはそっとその人形を、日当たりの良い大きな桜の木の根元に埋めた。
彼女は討魔庁へ報告書を送る。「魔は討伐した」と。
それは嘘ではない。彼女は、孤独という魔に食われかけていた一人の女性を、
永遠の愛という救いの中に解放したのだから。
レイカは村を去る道すがら、振り返らなかった。
ただ、頬を伝う一筋の冷たい雫だけが、彼女の任務の終わりを告げていた。
山あいの村に、春の風が吹き抜ける。
かつてそこには、誰よりも深く、誰よりも長く、人を愛し抜いた老婦人がいたことを、
今は誰も知らない。
ただ、その場所に植えられた桜の木だけが、毎年、誰かを待つように美しく花を咲かせ続けている。




