第四章 成長 第三十七話 櫛
第四章 成長 第三十七話 櫛
霧の立ち込める山道に、レイカは車を停めた。討魔庁からの緊急要請で訪れたのは、地図からも消えかかっている「鏡の村」と呼ばれる廃村だった。かつては美しく賑わっていたこの場所も、今や朽ちかけた木造建築が、崩れ落ちるその瞬間を待つように寄り添い合っていた。
依頼主である、村でただ一人残された老いた女性は、レイカと蒼也を古びた民家へと案内した。彼女は涙を拭うことさえ忘れ、震える指先で部屋の隅を指差した。
「……あの鏡台に、映るはずのないものが見えるのです。何十年も前に亡くなった娘が、ずっとそこで髪を梳かしているのです。娘はあそこに閉じ込められたまま、外の景色も知らず、ただ鏡の中だけで生きている……そう思うと、胸が張り裂けそうで」
レイカと蒼也は、朽ちかけた板の間を慎重に歩き、部屋の奥へと向かった。部屋の中は空気が冷え切っており、古い畳の匂いと、微かな化粧水の香りが混ざり合っていた。部屋の隅にある古い鏡台は、周囲の荒廃とは裏腹に、不思議なほど磨き上げられていた。
鏡の前に立つと、曇りガラスのような質感の鏡面に、レイカと蒼也の背後に立つ少女の姿が映った。十歳にも満たない、愛らしい少女だ。彼女はレイカと蒼也の気配に気づくと、ふわりと振り返った。
「……お母さん、綺麗になった?」
鏡の中から聞こえた声は、ひどく掠れていて、まるで何十年も声を出していなかったかのように小さかった。
レイカは即座に理解した。これは妖ではない。これは、愛する娘を亡くした母親の「その事実をどうしても受け入れられない」という凄まじい執着が、鏡を依り代にして娘の魂をこの世に縛り付けているのだ。娘の魂は、鏡の中で成長することも、成仏することもできず、ただ母の視線を感じながら、終わりのない「良い子」を演じ続けていた。
レイカは鏡の前に座り、静かに言った。
「ああ、とても綺麗だよ。でもね、ずっとそこにいたら、お母さんが本当の意味で悲しむんだ」
少女は悲しげに首を横に振った。その瞳には、子供らしからぬ深い哀愁が漂っている。
「でも、私がいないとお母さんは一人だもの。私が髪を梳かしてあげないと、お母さんは寂しいんだもの。私、約束したの。ずっと一緒にいるって」
その言葉に、蒼也の胸は押し潰されるようだった。これは呪いなどではない。あまりにも純粋で、あまりにも悲劇的な、親子の愛の形だ。だからこそ、滅することなどできない。力ずくで引き剥がせば、少女の心は砕け散り、母親の心まで壊れてしまうだろう。
レイカは、鏡の縁を指先でなぞった。そして、
「お母さんに会いにいこう。でも、姿を見せるためじゃない。心の中に、本当の温もりとして帰るために」
レイカは鏡台の引き出しをそっと開けた。そこには、母が娘のために用意していた、使い古された木製の櫛があった。レイカはその櫛を使い、鏡の中の少女の髪を梳かす真似をした。何度も、何度も。母がかつてそうしていたように。少女の髪に触れる感覚は冷たかったが、レイカの心には、温かな情景が溢れ出していた。
「大丈夫だよ。お母さんはもう、あなたがどれだけ愛されていたかを知っている。姿が見えなくても、声が聞こえなくても、あなたの温もりは、お母さんの胸の中にずっとあるよ。鏡の中にいるあなたは、お母さんが守りたかった過去だけど、本当のあなたは、お母さんの未来にならなきゃいけないのよ」
レイカは、蒼也に、祝詞を捧げるよう静かに、指示した。
祝詞を捧げると、鏡の中の少女がふと微笑んだ。それは、何十年もの孤独から解放された、心からの安らぎの笑顔だった。彼女は鏡の表面に手を当てた。その手は、かつてないほど温かな光を放ち始めた。
「お母さん……ずっと、大好きだったよ」
少女の体は、まるで淡い春の雪が解けるように、光の粒子となって鏡から溢れ出した。その光は部屋中を満たし、壁を抜けて、隣の部屋で静かに眠る老いた母親の元へと向かっていった。
隣の部屋から、微かな寝息と共に、母親の「あぁ……」という感嘆の吐息が聞こえた。夢の中で、優しい手で頬を撫でられるのを感じたのだろう。彼女はきっと、何十年かぶりに深い眠りから覚め、初めて心からの安らぎを感じているはずだ。
レイカと蒼也は、鏡台を布で覆い、部屋を後にした。
老いた母親の頬を涙が一筋伝っていた。
「ありがとう……ようやく送り出せました。」
外に出ると、どんよりとしていた曇り空が割れ、一筋の夕陽が差し込んでいた。荒れ果てた村が、その一瞬だけ黄金色に輝いて見える。
車のエンジンをかけると、排気音だけが静寂に響く。
私達の仕事はいつも、こうして誰かの「さようなら」と「ありがとう」の間に立ち、その重みを受け止めることが大切なの。
たとえ姿が見えなくなっても、愛した記憶は決して消えないということを、忘れないでね。レイカは、蒼也に言った。
蒼也が紡ぐ言葉が、いつか誰かの孤独を癒やす光になりますように。
たとえこの世を去った後も、誰かの心の中に愛する人が生き続けているならば、それは決して孤独ではないのだと、蒼也は、今回、学んだ。
レイカと蒼也は静かに村をあとにした。背後では、もう鏡の村の少女の声は聞こえない。だが、森の梢を揺らす風の音が、まるで少女が笑いながら駆け抜けていったかのように、心地よく聞こえた。
第三十七話 了




