第四章 成長 第二十五話 天女の羽衣
第四章 成長 第二十五話 天女の羽衣
今日は、神社の祭りだった。
楠木さやかは、神代蒼也に聞いた。
天女の羽衣って知ってる?
知らない。
昨日、亡くなった祖父の日記に書いてあったの。
天女の羽衣は、楠木家の誰からも忘れ去られた古い蔵の、一番奥まった場所にあった。
さやかは、埃っぽいその空間で、その桐箱を見つけた。
中には、月の光をそのまま布にしたような、白く透き通る羽衣が畳まれていた。
触れると、指先から不思議な冷たさと、心臓をくすぐるような震えが伝わってくる。
「……なんだか、誰かがこれを待っているみたい」
さやかには、不思議な力があった。時折、風の音に混じって誰かが泣いている声が聞こえたり、誰もいないはずの場所に、ぼんやりと影が座っているのが見えたりした。
ある日の夕暮れ。さやかは、いつものように神社の裏手にある大きな銀杏の木の下で、一人の少女が佇んでいるのを見つけた。
その少女は、さやかたち人間には見えない何か――妖だった。
少女は宵月といった。
宵月は、いつもそこから、境内で笛を吹く少年の姿を、切なげな瞳で見つめていた。妖の視界からは、人間の少年はどこか遠い世界の人に思えた。彼と同じ景色を見て、同じ温度で呼吸をしたい。
宵月の願いは、ひどく純粋で、そして絶望的に叶わないものだった。
「ねえ、これを使ってみる?」
不意に声をかけられ、宵月は驚いて振り返った。さやかが、手にした羽衣を差し出していた。
宵月は息を呑んだ。それは伝説の『天女の羽衣』。
妖が纏うことによって、人と同じ世界を視、人と同じ存在として歩くことができるという秘宝だ。
「どうして……人間であるあなたが、こんなものを」
「わからないの。でも、蔵の中で見つけたとき、
ずっとあなたのことを考えていた気がして」
宵月は震える手で羽衣を受け取った。
その布が肌に触れた瞬間、妖の身体に、人間と同じ確かな熱が宿った。視界が一気に色づき、夕焼けの橙が、祭りの提灯の明かりが、少年の吹く笛の音が、すべて鮮明に流れ込んでくる。
「ありがとう……ありがとう」
宵月は、夢中で駆け出した。
祭りの喧騒の中、羽衣を纏った宵月は、もう影ではない。
群衆の中に溶け込み、少年が笛を吹く舞台のすぐ傍まで近づくことができた。彼が奏でる旋律は、妖として遠くから聞いていたものよりもずっと温かく、鼓膜を震わせるほどに優しかった。
宵月は、涙をこらえて微笑んだ。
羽衣を纏えば、最後には妖としての存在が消え、誰の記憶からも消えてしまう。それは、自分の命を切り売りするような行為だ。
けれど、この瞬間の煌めきがあれば、永遠の孤独など取るに足りないものに思えた。
その様子を、神社の階段の上からさやかは見守っていた。
さやかの目には、祭りの光の中で、まるで本当の天女のように輝く宵月の姿が見えていた。
少女が結んだ、人間と妖のささやかな奇跡。
笛の音が止み、少年が満足げに笑った。
その顔を間近で見ることができた宵月は、幸福のあまり息を詰まらせた。
祭りの終わりと共に、宵月の輪郭は少しずつ薄れ始めていた。しかし、彼女の表情は穏やかだった。
宵月の輪郭は少しずつ薄れ始めていた。
羽衣を纏う代償は、確かに彼女の存在を削っていた。
影の中へ戻り、羽衣をそっと脱ぐ。
再びモノクロームの世界に戻っても、彼女の胸の奥には、確かに人間の温もりが灯っていた。
蔵の扉を閉めたさやかは、暗闇の中でそっと呟いた。
「またね」
いつか、また季節が巡った時、その羽衣が誰かを幸せにすることを願いながら。宵月という小さな妖は、再び静寂の中で、少年の笛の音を思い出しながら、幸福な余韻に浸っていた。
「素敵な話だね」
そう呟く蒼也に、さやかは微笑んだ。




