拾弐月拾壱日 水曜日② さいかい
車の揺れは穏やかで、 エンジン音が一定のリズムを刻み、まるで子守歌のように耳の奥で反響している。シートに深く身を預けると、身体の奥に溜まっていた力が、ゆっくりと溶けていくのがわかった。
窓の外を流れる景色は、見慣れたはずの街並みだった。けれど、どこか遠い。 ガラス一枚隔てているだけなのに、まるで別の世界を眺めているような感覚があった。
俺はもう、あの世界の住人ではないと、自然に理解してしまっている自分がいる。
隣には灯が座っている。背筋を伸ばし、静かに前を向く横顔。いつもと変わらない、静かで落ち着いた佇まい。
俺がここにいることを、疑いもなく肯定してくれている。
それが、たまらなく心地よかった。
「……なあ、灯」
「はい、啓人さま」
俺が声をかけると、即座に返事が返ってきた。
わずかな間もなく、それだけで、胸の奥がすっと落ち着く。
「途中で降りたいんだ。映画館まで……灯と一緒に歩いて行きたい」
灯は一瞬だけ俺の顔を見て、それから小さく頷いた。
「わかりました。では、そのように」
理由は聞かれなかった。否定もせず、ただ、俺の望みを、そうするものとして受け入れてくれる。
灯が運転席に軽く合図を送ると、車はほどなく減速し、路肩へと滑り込むように停まった。ドアが開き、外の空気が一気に流れ込んでくる。
十二月の空気が、肺の奥まで一気に入り込み、頭の芯をきゅっと締めた。
けれど、不快ではなく、むしろ、心地いい。
――まだ、生きている。そう実感できる冷たさだった。
「歩きましょうか」
「ああ」
俺が答えると、灯は一歩近づき、何のためらいもなく俺の腕に絡めてきた。
あまりにも自然な動作で、拒否する理由なんてどこにも浮かばない。
腕越しに伝わる体温。その重みと柔らかさが、ここにいる実感を、さらにはっきりと刻みつけてくる。
「懐かしいな……」
歩き出してすぐ、そんな言葉が口をついて出た。
「ずいぶん、昔のことみたいだ」
「何が、でしょうか」
「こうして映画館に向かうこと。誰かと一緒に、ただ歩くこと」
灯は答えなかったが、腕を組む力がほんの少しだけ強くなった気がした。
信号を渡ると、見慣れた通りに出る。
――灯と、初めて結ばれたあの日に歩いた道。
本当に、遠い昔のようだ。
「……お前」
不意に、背後から声がした。
「お前……伊原か?」
心臓が、一拍だけ跳ねる。
俺は立ち止まり、ゆっくり振り返ると、そこにいたのは――信先輩だった。
少しやつれた顔。目の下には隈が浮かび、以前よりも老けて見える。
それでも、間違いない。職場で何度も世話になった、あの人だ。
「……お久しぶりです」
そう言うと、先輩は目を見開いた。
「やっぱり伊原じゃねえか! お前、今までどこにいたんだ!」
一気に距離を詰めてくる。その勢いに、灯が一歩前に出ようとしたが、俺は軽く首を振って制した。
「仕事に急に来なくなって、電話にも出ないし、アパートにもいなかったし……テロに巻き込まれたんじゃないかって、みんなで心配してたんだぞ!」
……テロという、その単語は、俺の中でうまく現実と結びつかなかった。
まるで、ニュースの字幕を眺めているような感覚だ。
(ちゃんと、手続きは灯がしたはずなんだけどなぁ)
会社も、住居も、終わらせるべきものは、任せていたつもりだった。
でも――今は、そんなことはどうでもいい。
「すみません。心配、かけました」
俺は穏やかに、そう答える。
先輩の言葉を否定する気はなかったが、同時に、それを引き受けるつもりもない。
「でも、大丈夫です。今は……灯や、みんながいてくれますから」
先輩は、俺と灯を交互に見た。その視線には、戸惑いと困惑、そして理解できないものを見る恐怖が混じっていた。
「……お前、なんか変わったな」
ぽつりと、そう言われた。俺は少し考えてから、答える。
「はい。俺の人生変わったんです」
それは否定でも、言い訳でもなく、ただの事実だ。
俺は、灯のほうを見る。
「灯。信先輩は……テロで家族を亡くしています。不安なんです」
先輩の肩が、わずかに震えた。
「終円会で……力になれないかな」
灯は一瞬だけ目を伏せ、それから静かに頷いた。
「わかりました」
彼女が、軽く指先を動かす。
それが合図だった。周囲に溶け込むように立っていた数人が、自然な動作で近づいてくる。
「こちらへどうぞ」
「あなたのお話、聞かせてください」
「おいなんだお前らは! 離せ! おい伊原! 伊原!」
信先輩の声が、少しずつ遠ざかっていく。仲間に、導かれるままに連れていかれた。
(これでいい。これで、先輩も……俺たちの仲間になる)
胸の奥が、晴れやかになる。
救われるべき人は、まだたくさんいる。
終わりを恐れ、拒み、立ち尽くしている人たちが。
「さぁ、行こうか」
俺は灯に微笑み、再び歩き出した。
◇ ◆ ◇
映画館は、変わっていなかった。あの頃のままの外観。懐かしい匂い。
解説上映は――大成功だった。
皆が、俺の話に耳を傾けてくれた。
終わりの意味。死の肯定。恐怖ではなく、救済としての終焉。
涙を流す者もいた。深く頷く者もいた。
(ああ……伝わった)
これでいい。これで、また一歩進めた。
離れに戻ったのは、夜も深くなってからだった。
「啓人さま」
灯が、静かに声をかける。
「今後のことについて、ご相談があります」
「今後?」
「はい。クリスマスになった瞬間に……皆様でイベントをしたいのです。啓人さまにはその告知を行ってほしいのです」
「告知?」
「はい、動画や講演などで。日本を変える……花火を上げたいのです」
俺は、少し考えてから笑った。
「それは……いいことだな」
胸が、自然と高鳴る。
「クリスマスまで、忙しくなるな」
灯も、ほんの少しだけ微笑んだ。
俺は彼女に手を差し出す。
「こっちへ来い」
灯は何も言わず、素直にベッドへと歩いてきた。
終わりは、もうすぐだ。
そして、それは――こんなにも美しい。




