拾弐月拾壱日 水曜日① 報告
皆に愛を注ぎ終え、深い水底から浮かび上がるように意識が戻ってきた頃、扉の向こうで控えめな気配が揺れた。
「啓人さま。お目覚めでしょうか」
聞き慣れた灯の声だ。
俺はゆっくりと目を開け、天井を見上げる。
体は重いが、不快ではない。むしろ、必要なものをすべて使い切ったあとの、心地よい倦怠感が残っている。
「……ああ」
短く返事をすると、扉が静かに開いた。
「今日は、お願いがございます」
その声はいつもと変わらない。柔らかく、落ち着いていて、こちらの思考を急かさない声。
「お願い?」
「はい。今日は――『ネクロマンサー建国記』の解説上映をお願いしたいのです」
一瞬、その言葉を頭の中で転がす。
解説上映。いわゆる、映画を観た観客に対して、作品の背景や意図を語るあれだ。
(俺が制作に関わった映画じゃないが……いいのだろうか)
そんな疑問が浮かぶが、それは断る理由にはならなかった。
「……俺でいいのか?」
「はい。啓人さまにしかできません」
そう断言されると、不思議と迷いは消えた。
ここでは、それが当たり前だった。
ここへ来て、しばらく経つ。
本部へ行き、講演をするか、この離れで愛を注ぐかの往復の日々。
時間の感覚は相変わらず曖昧だ。
「外に出るのか」
「はい。上映会場は、私たちが一緒に観た映画館です」
「……そうか」
短く答えながら、俺は天井を見つめた。
いつ以来だろう。外の世界を、はっきりと意識をするのは。
灯は一歩近づき、俺の手のひらに何かを乗せた。
「これを、どうぞ」
それは――スマホだった。
いつの間にか無くなっていた俺のスマホ。だがどこか、俺のものではないように思えた。
「何かあった時のために、渡しておきます」
灯はそう言って、少しだけ間を置いた。
「では、準備をしてきますね」
そして、静かに一礼し、部屋を出ていった。
残された俺は、手の中のスマホを見つめる。
――昔は、これが手元にないと不安だった。
これがないと連絡が取れない。世間から取り残される。困ったときは頼りになる。
常に気にしていた。ポケットの重みを確かめ、机の上を確認し、画面を点ける。
煩わしいと感じながらも、それが世界と繋がっている証だと思っていた。
でも、今はどうだ。
「……なくても、なんとも思わないな」
声に出してみると、妙にしっくりきた。
こんなものがなくても、人は繋がれる。むしろ、今のほうがずっと繋がりを感じている。
画面を点けると、着信も、メッセージも、山ほど来ていたが、俺の目を引いたのは――日付だった。
十二月十一日。
「……一か月、か」
掲示板で安価を上げてから、ちょうど一か月。
たった一か月。
それなのに、ずいぶん遠くまで来た気がする。
もう、あの頃の自分には戻れないだろう。
感慨深い、という言葉が、今の心境に一番近かった。
指が自然と動き、掲示板を開く。
懐かしいスレッド。
かつては、ここが俺の世界の中心だった。
久しぶりに書き込もう、と思った。
理由は特にない。ただ、そうしたいと思っただけだ。
久しぶりとあいさつをし、軽く現状報告をする。
文字を打つ速度は、少し遅くなっていた。
どう説明したものかと言葉を選ぼうとして、やめた。
今は教える側に回り、皆に、愛を注いでる。
これでいい。いや、これがいい。
『安価で俺の人生変わった』
送信すると、それだけで、胸の奥が少し軽くなる。
どう思われようが、正直どうでもいい。理解されなくても構わない。
俺の想いを、ただ置いておきたかった。
しばらくして、足音が戻ってくる。
「啓人さま。準備ができました」
灯が、先ほどと同じ穏やかな表情で立っていた。
「わかった行こうか」
「はい……皆さん、とても喜んでいらっしゃいましたね」
灯は、少し嬉しそうにそう言った。
「よかったですね」
「……そうだな」
それだけ返すと、灯は満足そうに頷く。
離れを出ると外の空気は、冷たかった。十二月らしい、澄んだ冷たさ。
「車はこちらです」
促されるまま、車に乗り込み、シートに身を沈めながら、俺はふと思った。
(灯が言ってた『皆さん』って誰のことだ?)
俺が愛を注いだ女たちなら、いまさらだ。
まぁ、誰のことかはわからないが、喜んでいるならそれでいい。
エンジン音が響き、車が動き出す。
今はネクロマンサー建国記の解説上映。
この素晴らしい映画を皆に知ってもらいたい。
今の俺に、できることは――それだけなのだから。




