拾弐月弐拾肆日 火曜日 。
クリスマスイブが、やってきた。
ほんの少し前から、街は朝の空気からして違っていた。浮き足立つ、という言葉がこれほど似合う日もないだろう。
赤と緑の装飾、スピーカーから流れる、どこか軽薄な鈴の音。意味もなく弾んだ人々の声。
何年も前から繰り返されてきた、ただの年中行事だ。俺自身、これまで幾度となく、その光景の中を通り過ぎてきたはずだった。
それなのに――今日は、同じ景色に見えなかった。
色が違うわけでも、音が変わったわけでもなく、変わったのは、俺のほうだ。
俺はもう、あの喧騒の世界の内側にはいない。ガラス越しに眺めるように、どこか遠くから、それを見ている。
そんな感覚を抱えたまま、俺はこの数日、終円会と外の世界を行き来し続けていた。
クリスマスイベントの最終準備。
告知用の動画撮影、外部で活躍する仲間への激励、講演の段取りなど、詰めるべき細部は尽きることがなく、時間はいくらあっても足りなかった。
その合間、合間に――俺は、求められるまま、皆の元へ向かい、愛を注ぐ。触れ、抱き、言葉を与え、恐れを受け止め、終わりを肯定する。
それは俺がこの世界にいた理由を、何度も確かめるための行為。
疲労は確かにあったが、不思議と苦ではなかった。
むしろ――胸の奥が、ずっと満たされ続けている。
『啓人さま……』
名前を呼ばれるたび、俺は応じる。誰かに必要とされているという実感が、何よりも心地よかった。
最近では、目に見える変化も増えてきた。
鏡に映る、銀色の髪。それはもう、俺だけの象徴ではなくなっている。
外の世界でも、同じ色に染めた者たちが増えていると聞いた。
理由を尋ねたことはないが、わかっている。
彼らは、俺を選んだのだ。
……昔なら、考えられなかった。
誰かの指針になることも、誰かの生き方に影響を与えることも。
俺は、ずっと、その他大勢の一人だったはずなのに。
◇ ◆ ◇
すべての準備を終え、離れに戻ると、俺は深く息を吐いた。身体の奥に溜まっていたものが、ゆっくりと抜けていく。
隣には、灯がいる。
少し前まで――クリスマスに、誰かが隣にいる未来なんて、想像すらできなかった。
何もなければ、今年も独りで、コンビニのケーキとチキンを横目に、適当な酒を飲んで、眠るだけの夜だっただろう。
なのに、今は違う。
灯は、俺の腕に寄り添い、静かに呼吸している。昂りを高めるための交わりを、つい先ほど終えたばかりだった。
その体温が、まだ腕に残っている。
「……もうすぐ、ですね」
灯が、余韻を帯びた声で呟く。
「ああ」
短く答えながら、天井を見る。
「ここまで来たな」
本当に、遠くまで来た。
掲示板に縋りついた、あの日。安価を取り、選ばれ、導かれ。気づけば、俺はここに立っている。
「啓人さま、こちらをどうぞ」
灯に促され、スマホを手に取る。
――掲示板。
すべての始まりであり、俺をここまで導いてくれた場所。
スレッドは、もうすぐで千に届こうとしていた。
画面を見つめていると、不思議な感慨が湧き上がる。
(俺も……最後に、書き込もう)
指を動かし、書き込み欄を開き、名前欄に表示された文字に、視線が止まる。
最後に投稿した時の【30歳の村人】だった。
一瞬、考える。
(俺は、まだ村人か)
答えは、すぐに出た。
――違う。
俺は、文字を打ち替える。
【30歳の勇者】
(これは、俺の物語だ。誰かに与えられた役じゃない。選び取った肩書きだ)
本文欄に、言葉を打つ。
【目覚めの時はきた】
送信ボタンに、指が触れかけた、その瞬間。
「啓人さま」
灯の声が、俺を止めた。
「また、忘れていますよ」
「……何をだ?」
灯は、静かに俺を見る。
「終円会は、物語を終わりへと導く会です」
そして、穏やかに告げた。
「物語の終わりには、きちんと区切りをつけませんと」
一拍の後、俺は、思わず笑った。
「ああ……そうだったな」
画面に視線を戻し、俺は、そっと句点を打ち足す。
【目覚めの時はきた。】
――これでいい。
送信ボタンを押したあと、俺はスマホを静かに伏せた。
もう、画面を見る必要はない。言葉は残した。役目は果たした。
胸の奥で、何かが静かに、完結した気がした。
そのとき、隣にいる灯の存在を、強く意識した。呼吸の音。体温。すぐそこにある重み。
「……灯」
俺が名を呼ぶと、彼女はゆっくりとこちらを向いた。
「俺を、ここまで導いてくれてありがとう」
言葉にすると、胸の奥が少しだけ痛んだ。
感謝と同時に、それが別れの言葉の形をしていることを、どこかで理解してしまっている。
「愛してる」
迷いはなかった。照れも、躊躇もない。
灯は、ほんの一瞬だけ目を伏せ、それから静かに微笑んだ。
「……私もです」
その声は、いつもより少しだけ柔らかかった。
「私も、啓人さまに出会えてよかった」
それだけで、すべてが報われた気がした。
俺の選択も、迷いも、過ちも、ここに至るまでのすべてが。
時計を見る。
秒針が、確実に、終わりへ向かって進んでいる。
五。
四。
鼓動が、やけに大きく響く。
三。
二。
灯の横顔を見る。その表情は――穏やかで、迷いがなくて……
一。
俺は、反射的に彼女の名前を呼ぼうとした。
「――あか……!」
その瞬間。
彼女は、笑っていた。
怖れも、不安も、後悔もない、ただ静かな笑顔。
まるで、すべてを知ったうえで、この瞬間を待っていたかのように。
(俺は……俺は、ちゃんと、笑えているだろうか)
零。
その瞬間――ドン、と、花火の音にも、雷鳴にも似た――世界そのものが裂けるような爆音が、すべてを覆い尽くした。
空気が震え、光が世界を塗り潰す。
光が弾け、音が崩れ、すべてが、白に溶けていく。
(――終わりだ)
そう、確信しながら、意識が途切れた。




