十一月二十三日 土曜日③ 卒業
二人の距離が、突然消えた。
照宮さんの唇が重なった瞬間、頭の中が真っ白になった。
(柔らかい)
それが最初に浮かんだ感想だった。
温かくて、思ったよりも近くて、そして――思ったよりも深かった。
ただ触れるだけのものだと思っていた。ドラマや映画で見るような、軽く触れて終わるものだと。
けれど、照宮さんの唇は、ほんの少し角度を変えて――そのまま、舌が触れた。
「……っ」
思わず体がびくっと跳ね、心臓が、ドクンと一つ大きく鳴る。
その音が、耳の奥でやけに大きく響いた。
頭が追いつかない。
初めてだった。
キスそのものもが初めてなのに、その先まで一気に踏み込まれるなんて、まったく想像していなかった。
照宮さんの手が、そっと俺の頬に触れる。
押さえつけるわけでもない。
逃げ道を塞ぐわけでもない。
ただ――優しく支えるように触れていた。
その温もりが、不思議と落ち着くが、心臓だけは、まったく落ち着く気配がなかった。
やがて、ゆっくりと唇が離れる。
数センチの距離。照宮さんの吐息が、ほんのり頬にかかった。
目が合うと、その瞳は――どこか楽しそうだった。
「びっくりしました?」
くすっと小さく笑いながら、照宮さんが聞いてくる。
俺は、言葉が出なかった。頭の中が、まだ整理できていない。
「……は、はい」
ようやく出た言葉は、それだけだった。情けないくらい正直な返事だった。
自分でも顔が熱くなっているのがわかる。
照宮さんはくすっと笑った。
「かわいい反応ですね」
「か、かわ……」
言葉が詰まる。
三十歳にもなって、かわいいと言われるとは思っていなかった。
けれど――不思議と嫌な感じはしなかった。むしろ、少しだけ胸の奥がくすぐったい。
だけど、さっきのキスは、完全に受け身だった。されるがままだった。
このまま終わるのは、なんだか悔しい気がした。
ほんの少しだけ、体を前に出す。
照宮さんの顔が、すぐ近くにある。
心臓の音がうるさい。
それでも――
今度は、俺の方から唇を近づけた。
そっと触れる。
ぎこちなく。
距離の測り方もわからないまま。
少し動いた瞬間――
カチ、と歯が軽く当たった。
「……っ」
思わず目を閉じる。
(やばい、絶対、下手だ。三十歳にもなって、こんなキスをする男なんているのか)
そう思った瞬間、恥ずかしさが一気に押し寄せた。
慌てて離れようとした、そのとき、照宮さんの腕が、俺の背中に回り、そっと抱き寄せられる。
逃げないように、というより――受け止めるように、俺に優しく合わせてくれる。
ぎこちないキスだった。かなり不格好だったと思う。
それでも、拒まれなかった。
しばらくして唇が離れ、二人で、静かに息をつき、見つめ合う。
何秒なのか、何十秒なのか。時間の感覚がよくわからない。
ただ、胸の奥がじんわり熱かった。
そして、ふと思う。
(……このあと、どうすればいいんだ)
キスまでは、なんとなく想像できた。
でも、その先は――正直、よく知らない。
知識がないわけじゃないけれど、現実の話になると、何もわからなくなり、頭の中がまた真っ白になる。
迷った末に、俺は口を開いた。
「……すいません」
照宮さんが首を傾げた。
「俺、三十にもなって……その……」
言葉が続かない。喉が、やけに乾いている。
それでも――言わなきゃいけない気がした。
「初めてで」
言ってしまったその瞬間、部屋の空気が静かになる。
(やっぱり引かれただろうか)
そう思った。
でも――照宮さんは、ふっと微笑んだ。
「大丈夫ですよ」
優しい声だった。安心させるような、落ち着いた声。
「私に任せてください」
その言葉には、不思議な説得力があり、胸の奥の緊張が、少しだけほどける。
照宮さんが立ち上がり、俺の手を取る。
「こっちです」
軽く引かれる。
向かった先は、シャワールームだった。
◇ ◆ ◇
照明が少し明るい空間。タイルの床が、ひんやりしている。
照宮さんが振り返って、くすっと笑った。
「緊張してます?」
「……めちゃくちゃ」
正直に言う。
「顔に書いてあります」
「そんなにですか」
「はい」
そう言って、照宮さんは俺のシャツのボタンに手をかけた。
ひとつ、またひとつ、するり、と外していく。
慣れているのか、それとも落ち着いて見せているだけなのか、俺にはわからなかった。
気づけば、服は床に落ちていた。
照宮さんも同じだった。
お互い、何も身につけていない。
さっきまで服の上からでもわかっていたが――改めて目の前にすると、まったく違う。
(……綺麗だ)
思わず見とれてしまう。
細い肩。柔らかな腰のライン。そして――どうしても目を引く胸。
視線を逸らそうとしても、つい戻ってしまう。
「もっと見てもいいですよ」
照宮さんが、少しだけ照れたように言う。
「……すみません」
「でも」
小さく笑う。
「嫌じゃないです」
ボディソープを手に取り、泡立て、俺の肩に触れた。
「何もしなくていいですよ」
優しくそう言って、泡で体を洗われていく。
肩。腕。胸。背中。
指先がゆっくり動くたび、くすぐったいような感覚が広がる。
こんなふうに誰かに触れられるのは初めてだった。
緊張と、安心と、変な高揚が混ざる。
手はそのまま下へ。腹部。そして――
照宮さんが小さく笑った。
「元気ですね」
顔が一気に熱くなる。
「……すみません」
「謝らなくて大丈夫ですよ」
優しい声だった。
「自然なことです。……我慢しなくていいですよ」
そう言われ、そのまま暴発してしまう。
「すいません。いつもはこんなに早くないんですが」
なんだか情けなくなり、そう言い訳するも。
「大丈夫です。それにまだ元気ですよ」
と言われ、シャワーを浴び、泡が流れていき、タオルで体を拭かれる。
全部、照宮さんのペースだった。
まるで――導かれているみたいだった。
「行きましょうか」
手を取られ、ベッドへ戻る。
「ここで、横になってください」
言われるまま仰向けになる。天井のライトが、少し眩しい。
そして――照宮さんの髪が、視界に落ちてくる。
近い。とても近い。優しい温もりが、少しずつ重なっていく。
胸の奥が揺れる。
何かしなきゃいけない気がして、手を伸ばしかける。
すると――
「大丈夫ですよ」
照宮さんが、やわらかく言った。
「何もしなくて大丈夫です」
その言葉で、肩の力が抜けた。
窓の外には、夜の街の灯り。
静かなホテルの部屋。
ぎこちない呼吸と、重なる体温。
その夜。
俺は――初めて、誰かと朝を迎える夜を知った。




