十一月二十三日 土曜日② 予感
二人でホテルのレストランの入口に立った瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられるような感覚に襲われた。
扉の向こうには、落ち着いた照明に照らされた空間が広がっている。
テーブルクロスは白く整えられ、グラスが静かに光を反射している。
どこか遠くで流れているピアノの音が、妙に現実感を薄めていた。
(まるで映画のセットみたいだ)
そう思ったがそうではない。
こういう場所を舞台に映画が作られているだけだ。
(……場違いだな)
正直、そう思った。
映画を観たあと、ホテルのレストランで食事というのは、ドラマや漫画ではよくある展開だ。
でもそれは、あくまで「誰かの物語」の中の出来事だと思っていた。
少なくとも――伊原啓人の人生には無縁だと思っていた。
それなのに今、俺はここに立っている。
「どうしました?」
隣から声がかかり、はっとして横を見ると、照宮さんが、少し首を傾げてこちらを見ていた。
柔らかな笑顔だが、その瞳にはほんのわずかに心配の色が浮かんでいる。
「あ、いえ……」
慌てて言葉を探す。
「すみません。ちょっと緊張してしまって」
正直に言うと、照宮さんはくすっと笑った。
「ふふ。そんなにかしこまらなくても大丈夫ですよ?」
「いや……なんというか」
言いながら、視線をレストランの中へ向ける。
「こういう場所って、慣れてなくて」
自分でも情けないと思う。
三十歳にもなって、ホテルのレストランで緊張しているなんて。
でも、こればかりはどうしようもない。
そもそも、女性とこういう場所に来た経験が、ほとんどないのだから。
照宮さんは少しだけ考えるような顔をしてから、ふっと笑った。
「でも」
「?」
「啓人さん、ちゃんとここまで来てるじゃないですか」
さらっと言う。
「それって、すごいことだと思いますよ」
その言葉に、一瞬言葉を失う。
胸の奥が少しだけ温かくなった。
「あの……」
俺は小さく息を吐いてから言った。
「少しだけトイレ行ってきてもいいですか」
「もちろん」
照宮さんはあっさり頷いた。
「先に席に案内してもらっておきますね」
「ありがとうございます」
そう言ってから、俺は一度頭を下げてトイレへと歩いた。
今のままだと心臓がうるさすぎた。
少し落ち着く時間が必要だった。
◇ ◆ ◇
トイレの鏡の前に立つ。
そこに映っていたのは、どこにでもいる冴えない男だった。
伊原 啓人、三十歳、童貞。銀髪だが、魔法は使えない。
「……落ち着け」
蛇口をひねると、冷たい水が流れ出す。
手ですくって顔にかけると、ぱしゃり、と水がはねる。
冷たい。
その冷たさが逆に頭をはっきりさせてくれる。
鏡の中の自分を見ると、ふと、ネクロの顔が頭をよぎった。
映画のワンシーン。
『選ばれたからには、責任を持ち、覚悟を決め、逃げない』
映画の中のセリフなのに、妙に胸に刺さった。
……いや、きっと理由はわかっている。
俺の人生も、少しだけそれに似ているからだ。
掲示板の安価に押されて始まったはずだったが、その中で俺は、確かに選んできた。
逃げない選択を。
変わろうとする選択を。
怖くても、一歩踏み出す選択を。
「……よし」
ハンカチで顔を拭き、深呼吸をし、もう一度鏡を見る。
そこには、さっきより少しだけ落ち着いた自分がいた。
俺はトイレを出て、レストランへ戻った。
◇ ◆ ◇
席に戻ると、すでに照宮さんはテーブルに座っていて、その前にはワイングラスが置かれている。
細い脚のグラスの中に、赤い液体が静かに揺れていた。
「あ、戻りました」
「おかえりなさい」
照宮さんが微笑む。
「先に飲み物を注文してしまったんですが……ワイン、大丈夫でしたか?」
少しだけ申し訳なさそうに聞いてくるので、俺は首を振った。
「大丈夫です。普段あまり飲まないですけど、特に苦手ではないので」
「よかった」
正直に言うと、ほっとしたように笑う照宮さん。
その笑顔を見るだけで、胸の奥が少し軽くなる。
席に腰を下ろし、ナプキンを膝に置く。こういう所作も、まだ少しぎこちない。
しばらくして、前菜が運ばれてきた。
色とりどりの野菜と魚介が、まるで絵画の様に綺麗に盛りつけられている。
「それじゃあ」
照宮さんがグラスを持ち上げる。
「今日はありがとうございました」
俺も慌ててグラスを持つ。
「こちらこそ」
軽くグラスを合わせるとチン、と小さな音が鳴った。
ワインを口に運び、ゆっくりと飲み込む。
(……こんな感じだったかな?)
久しぶりに飲むワインは、少し苦くて、少し甘い。
そして喉を通ったあと、体の奥がじんわり温かくなる。
アルコールが回り始める頃には、さっきまでの緊張も少しだけほぐれていた。
それからは、自然と会話が続いた。
「さっきの映画、あのシーン、すごかったですよね。ネクロが『選ばれたからには』って言うところ」
照宮さんは静かに頷いた。
「はい。あそこ、私も好きなんです」
その言葉を聞いて、少し嬉しくなる。
「……あの時、ちょっと自分を重ねました」
「重ねた?」
「はい」
言葉を探しながら続ける。
「俺も……変わるために、何かを選んできたんです」
照宮さんが真剣な目でこちらを見る。
「選ばされることもありましたけど」
掲示板の安価が頭をよぎる。
「でも……逃げなかった」
照宮さんは黙って聞いていた。
「だから、ネクロのあのシーン……なんか、わかる気がして」
言い終えると、照宮さんは優しく微笑んだ。
「この前も言いましたけど」
ゆっくりとした声。
「変わろうとするのって、素敵なことだと思うんです」
胸が少しだけ熱くなる。
「それに選ぶことと、選ばれること。その両方があるから、人って前に進めるんじゃないかなって」
照宮さんはワインを一口飲み、続けた。
「もしそれを、あの映画から読み取ってもらえたなら」
柔らかく笑う。
「すごく嬉しいです」
俺は何も言えなかった。
ただ、胸の奥がじんわり温かくなっていた。
◇ ◆ ◇
コース料理はゆっくりと進んでいく。
そのたびにワインが注がれ、グラスは何度も空になった。
気がつけば、最初の緊張はどこかへ消えていた。
映画の演出の話、好きなシーン、キャラクターの解釈を笑いながら話していると、照宮さんも楽しそうに笑っていた。
そして、最後のデザートが運ばれてきて、それを食べ終えた頃、照宮さんが、ふっと息をついた。
「今日は楽しかったですね」
「はい」
心からそう思った。
「……まだ、話したりませんね」
そう言って、照宮さんがこちらを見る。
少し赤い頬はワインのせいだろうか。
でも――その目は、どこか期待しているようにも見えた。
……俺の勘違いかもしれない。
「そうですね。今日は――」
そこまで言って、言葉が止まる。
(ここで終わってもいいのか?)
頭の中で、いろんな事が浮かんだ。
安価。背中を押してくれた掲示板の連中や、信先輩の言葉。
俺は今まで、誰かに選ばれてばかりだった。
安価で動き、流れで動き。誰かの言葉に背中を押されてきた。
(でも、最後くらいは自分で選びたい。自分の意志で!)
胸の奥で、何かが静かに固まる。
覚悟を決める。
「実は……この後なんですけど……」
声が少し震える。
照宮さんが静かに聞いている。
「ホテルの部屋を……取ってるんですが」
言った。言ってしまった。心臓が爆発しそうなくらい早く打つ。
(怖い。断られたらどうしよう。嫌われたらどうしよう)
恐る恐る、顔を見ると照宮さんは――妖艶に微笑んでいた。
「……はい」
ゆっくり頷く。
「ちょっと期待していました」
一瞬、言葉が理解できなかった。
次の瞬間、胸の奥から、熱いものが込み上げてくる。
「それじゃあ」
照宮さんが立ち上がる。
「行きましょうか」
「……はい」
俺も立ち上がった。
◇ ◆ ◇
二人でエレベーターに乗る。
静かな箱の中。どちらも喋らないが、この沈黙は嫌なものじゃなかった。
むしろ、これから何かが始まる前の、静かな時間みたいだった。
部屋の前に着き、カードキーを差し込み、部屋に入る。
照明をつけると、真っ先に目に入ったのはダブルベッドだった。
俺は慌てて言う。
「その……予約した時、この部屋しか空いてなくて」
言い訳みたいな言葉。
「ふふ」
照宮さんは、小さく笑うと、そのままベッドに腰かけ、ぽん、と隣を軽く叩いた。
「どうぞ」
促され、俺も隣に座る。
肩が触れる距離。
(近い。近すぎる)
心臓の音が聞こえそうだった。
「さっきの映画の――」
何か話そうと口を開いた、その瞬間、照宮さんの手が、そっと俺の頬に触れた。
そして、唇が重なる。
柔らかい感触。温かい。
時間が止まり、頭が真っ白になる。
――人生初キスだった。




